私の過去をざっくり話そうと思うよ
私は、田舎生まれの田舎育ち
幼少期の私はというと、
明るくて前向き
大人の言うこと素直に聞く
目立ちたがり屋
正義感が強くてリーダー気質
だった。たぶん。
そんな自分のことを
自分はわりとなんでもできて
お友達にも優しくできて
みんなによく頼られて
根拠なく自信をもっていた
のよ。まぁちょっと
いい子風に言い過ぎかもしれないけど
幼少期〜小学5年生の私は、
運動も好きだし、勉強もできる方で
頑張ればそれなりに結果が出て
自分のことが大好きなやつだった。
だったのだけど
小学5年生、
3学期の途中に転校してから
雲行きが怪しくなり始める。
(自分のことは
とことん大好きな方がいいよ )
小5の途中も途中に
家庭の事情で急に転校しまして
(これも話せば長くて…
あれはいわゆる夜逃げだったのか)
私は、地元よりも
ずいぶん都会の学校へ転校しました。
(とはいえ田舎県なのでそこそこの都会ね)
そこで感じた
あれ?私って全然すごくない
という気持ち。
田舎の、いい意味でのんびりした
小さなコミュニティーから
もっともっと
個性があったり、
優れていたり、
自信のあるように見える
そんな人たちが大勢いる環境に急に入って
自分の”立ち位置”みたいなものを
子どもながらに把握し始めたんだと思う。
このくらいから
他人と比べて自分はどうか…
優れているのか
普通でいられているか
変ではないか
そんなふうに考える癖が始まったように思う。
転校したことで、良くも悪くも
自分ってこのくらいなんだな
という事実を知ったわけ。
それを知ってからは
たくさんの個性の中で
協調性がある方がいい
物分かりがいい方がいい
目立つより空気を読むほうがいい
そんなふうに考えるようになって
見事に上手にそれを身につけて
誰からも好かれやすそうな”私”
になっていった。
小学5年生の私は
「井の中の蛙ってこういうことか」
ということを体感したの。
そして、
他人と比べて自分は
どういう人でいたらいいのか
(素晴らしいか、価値があるのか)
という基準で自分の言動を決めるようになった。
それってつまり、
他人のために自分はいて
他人にとって迷惑なことはしないのは当たり前で
誰かが喜んでくれるることに価値があって
大人の、友達の、学校の、世間の評価を大事にする
そういう価値観を
信じて疑うことなく過ごしてたの。
気づいたら。
この価値観が素晴らしいって
疑いもしなかったのは
世の中の多数の意見だから。
実際こう生きたら喜ばれたし
評価してもらえたし
賛同する人が沢山いたから
誰かのために生きている自分に
違和感を感じなかった。
でもね、そんなふうに生きていたら
うまくいかないことが私の人生に
どんどん現れるようになったの。
最初は誰かに喜ばれて
そんな自分に価値を感じて
誰かからみて価値ある自分が好きだった。
でもそれは裏を返すと
誰かに喜ばれない自分
期待に応えられない自分には
価値がないし
ダメな部分で許せない
っていうのを積み上げてしまってた。
自分のダメが膨らんで
そんな自分を許せなくて
自分に価値を感じられなくなって
私はその後、メンタルの病気で長いこと苦しむことになったのね。
自分には価値がないって思っていた頃の
SNSの裏アカウントに吐き出してた心のうちを
載せておくね。
人前でニコニコしたり、聞き分けがいい人でいたり、明るくてポジティブに思われていたり。昔は単純に、人に喜ばれたり頼りにされるのが嬉しかった。そのうち、そうじゃない自分は価値がなく、必要とされないと思うようになりました。今ではそれ以外の振る舞い方がわからない。
そんなんじゃねぇよ、クソ。心がドス黒くて自分がこわいわ。
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#病み #愚痴 #吐き出さないと毒溜まる
メンタル病んだ話は、また次に書きまする
全然関係ないけど、
このシリーズのスタンプ好き