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日記の日 由来
由来は『 アンネの日記 』で有名な、ポーランド系ユダヤ人のアンネ・フランクが①⑨④②年⑥月①②日に、この日記を書き始められたことからです。
ちなみに、このアンネの日記とは第二次世界大戦の中の国家社会主義ドイツ労働者党による占領下のオランダ・アムステルダムでユダヤ人狩りを避けるために隠れ家に潜んだ⑧人のアンネフランクを含むユダヤ人達の捕まるまでの生活を記した約②年間の日記です。
アンネの日記って⁉️
彼女が隠れ家で暮らした日々を記したものです。
当時ナチスの政権下に落ちたドイツでは、ユダヤ人への迫害が厳しくなってきていました。そのためフランク一家は、オランダのアムステルダムへ亡命することになります。
彼女たちがアムステルダムへ行く前①⑨④②年の⑥月①②日アンネ・フランクは①③歳の誕生日に一冊のサイン帳を両親からプレゼントされます。このサイン帳を彼女は日記帳として使い始めました。日記のなかで『 キティー 』という架空の友達を作って、手紙のような形で書き記していったのです。
これが『 アンネの日記 』です。
彼女は隠れ家の日々の出来事、母や父や姉の話、食料が不足していること、一緒に隠れ家に住んでいた同居人たちのこと、ナチスへの思いなどを自らの感性で書き連ねました。
アンネの日記 悪口に下ネタ話⁉️
アンネは戦争が終われば自分の日記を出版する予定でした。そのため彼女が書いた日記は自分用に付けていたものと出版用の清書と②種類存在していたのです。
彼女が日記を出版する願いは叶いませんでしたが、父オットーがその②冊を編集して出版しました。ですが、そこは父親として彼女の赤裸々な思いを皆の目に触れさせるのは気が引けたのでしょう。後に彼がカットした部分や新たに見つかった部分が追記されたものも出版されたのです。
彼女は日記にナチスへの不満や生活のこまごまとしたことだけでなく、母親への愚痴や不満をかなりおおっぴらに書き記していました。『 とにかくママが我慢ならない 』『 パパの手伝いならいくらでもやるけど、ママの手伝いなんてごめんです 』など。ちょうど反抗期だったのかもしれません。
時には、仲良くしなくては、という反省も書いてあるのですが、多くは母の悪口です。姉マルゴットがおとなしく成績もよかったので、比べられるのも気に食わなかったようですね。
また日記には思春期の女の子らしい『 下ネタ 』も書き記されていました。彼女にとって『 没 』となったページに『 下ネタ・ジョークを書くことにする 』と書いてあったのです。
内容は性教育についてや売春婦、誰かにセックスについて説明する羽目になったら……など、年頃の女の子が興味を持つようなことでした。この内容はのちに紙を貼り付けられ、人の目に触れないようにしてありましたが、研究者の画像解析によって発覚してしまいます。
アンネの日記 恐ろしい生活下恋もしていた。
隠れ家での生活はとても制限の多いものでした。
かくまってくれている人の事務所の裏に隠れ家があり、フランク一家④人とファン・ペルス一家③人。また歯科医のフリッツ・プフェファーの計⑧人でひっそりと暮らしていました。
見つかれば収容所に連れていかれるという恐怖のなか、昼間は事務所の人にばれないよう、カーテンは閉めたまま静かに過ごし、トイレの使用さえ時間を制限されていたのです。狭い隠れ家の中に⑧人もいれば、アンネと母のケンカだけでなく、ほかの人たちの間でもさまざまな問題が起こります。
町に隠れ住んでいたほかのユダヤ人が連行されていくニュースを聞いたり、かくまっていた八百屋さんが逮捕されたり、本当にギリギリの生活を強いられていたのです。
そんな中、アンネは一緒に隠れ家で暮らすペーターに恋をします。
彼は内気な男の子。日記からは彼女が彼に片思いをしているところが読み取れます。やがて②人は想いが通じ合い屋根裏部屋で多くの時間を過ごすことになりました。外にも出られない、音も立てられない不自由な生活。そんななかで、寄り添いあっていたのでしょうね。
また日記には、ペーターと初めてキスをした日もつづってあります。『 わたしの一生の、とても重要な日だ 』と。当時、彼女は①⑤歳。こうして日記に書いてある思いだけを見れば、本当に普通の女の子です。