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百人一首の日 由来 小倉百人一首の完成日
小倉百人一首は、いつ完成したのかは定かではありません。藤原定家の日記である『 明月記 』に出てきた日付が参考にされている程度です。
藤原定家の『 明月記 』の文暦②年⑤月②⑦日の記述に、藤原定家が親友の宇都宮入道蓮生(頼綱)に頼まれて『 古今和歌集 』『 新古今集 』などから百人の代表的な和歌を選び、書写された和歌百首が嵯峨の小倉山荘(嵯峨中院山荘)の障子に貼られたとの明記されていました。
この『 明月記 』への記述が、小倉百人一首が初めて出てきたものであったので、小倉百人一首が、この日に完成したと考えられています。
最初の小倉百人一首は障子に書かれていた
『 明月記 』によると最初の小倉百人一首は障子に書かれていたということが分かります。この為、当時は、カルタ形式にはなっていませんでした。また、障子以外には、歌仙絵などの形式で観賞されていました。
百人一首って⁉️
何故『 小倉百人一首 』っていうのか⁉️
小倉百人一首という名前になっているのは藤原定家が小倉山の山荘で、和歌を編さんしたことにちなんで『 小倉 』と付けられています。なお、最近では『 小倉 』を付けずに、単純に『 百人一首 』と呼ばれることもあります。
百人一首 どんな人の作品が収録⁉️
小倉百人一首の歌の作者は天皇⑧人•僧①⑤人など貴族や女官などです。
歌の内容は『 恋 』に関するものが多い⁉️
百人一首に含まれている歌は、下記の通り、春夏秋冬の歌がありますが一番多いのは恋の歌です。
- 春の歌:⑥人
- 夏の歌:④人
- 秋の歌:①⑥人
- 冬の歌:⑥人
- 恋の歌:④③人
- 別離の歌:①人
- 旅の歌:④人
- その他の歌:②⓪人
百人一首 カルタ形式になったはいつから⁉️
百人一首は、元々は、障子や歌仙絵といった形で鑑賞されていました。しかし戦国時代の末期から安土桃山時代ごろに西洋からタロットカードやトランプの原型となるようなものが輸入されました。
トランプやタロットの影響を受け、日本独自のカードを作ろうとして、百人一首カルタができたと言われています。
百人一首のカルタが広まったの⁉️
百人一首が広まったのは江戸時代になってからです。安土桃山時代には、百人一首がカルタ形式になっています。あとに江戸時代には印刷技術が発達したことで、和歌の上句を読み上げ、下句が書かれた札をとる『 歌がるた 』が作られ庶民にも百人一首が楽しまれるようになりました。
百人一首の競技は いつから始まった⁉️
百人一首の競技は、明治時代には、各地で行われていたが、そのルールは、地方や、カルタ会によって違っていました。
①⑨⓪④年には競技カルタの統一ルールとして、ジャーナリストの黒岩涙香によって『 東京かるた会 』を結成し、第一回の競技カルタ大会を開催しました。このルールが微妙に修正をしつつ、現在に至っています。
競技カルタの全国団体は••• 戦前から⁉️
競技カルタの全国団体は①⑨③④年に『 大日本かるた協会 』によって全国統一が行われました。その後①⑨⑤⑦年に全日本かるた協会に統一されました。①⑨⑨⑥年には『 全日本かるた協会 』は、社団法人の認可を受けています。
百人一首 競技カルタの大会
競技カルタの大会では男子選手の最強を決める名人戦は①⑨⑨⑤年から行われています。女子選手の名人戦は①⑨⑤⑦年からクイーン戦が行われています。
競技は、毎年①月上旬に滋賀県大津市にある近江神宮で『 名人戦 』『 クイーン戦 』が開催されています。
百人一首の様々な遊び方
百人一首は、カルタ以外にもいくつもかの遊び方があります。具体的には•••
- 散らし取り(お散らし)
- 逆さまかるた
- 源平合戦
- リレーかるた
- 競技かるた
- 坊主めくり
- 青冠
百人一首の遊び方は、大きく分けると②種類になり、競技カルタのように『 上の句 』を読んで『 下の句 』の札をとるゲームと坊主めくりのように、札を読まずに遊ぶゲームの②種類の遊び方があります。
百人一首の日 まとめ
百人一首の日は、藤原定家によって百人一首が作られた日とされた日を記念日の日付にしています。この日付は藤原定家の日記に出てくる日であって、本当に百人一首ができた日ではなかったのには驚かされました。
また百人一首は、トランプやタロットを参考に、日本独自に作られたカードゲームです。特に、江戸時代からは、庶民の間でもカルタ遊びが行われていた歴史ある遊びですした。百人一首の日には、百人一首を楽しんでみるのも良いのではないかと思いました。