人生いろいろ失敗して来て1985年44歳の時、鍛冶屋から究極の仕事だと自分で決めて、スーパーの表を借りて店頭販売をしながら刃物研ぎを始めました。
【死んだ刃物を再び世に出す自信】のもとに開業しました。
最初は開業資金も少なく、工業組合の役員などをしていた関係で仕入れの商品も貸してもらえ、苦労もありましたがチラシ配布からハガキによるダイレクトメール等、思考錯誤を繰り返しワゴンのライトバンに商品と、最初は友達に借りた研ぎの機械を載せて近くのスーパーから細々と始めました。
十文字の台の上にベニヤ板を載せて朝夕の出し入れが大変でした。
元々職人だったので、品物を見る目があったのと地元の5本の指に入る職人の品物を扱うことができました。
ほとんどの人の切れない包丁が、見違えるようになるのと合わせて、【安くてよく切れる】と、評判になり、石の上にも3年、信用を築くことができました。
その間幸いにもライトバンと2トンの箱型のトラックと物物交換ができるラッキーも重なり、研ぎの機械も、新調して順調に進んでいたが、好事魔多し、工場を倉庫に建て替えの為、掃除中に梯子から落ちての3か月の入院をした。
うまく月またぎになったので資金繰りも何とかなった。
娘婿の妹の旦那が、仕事を探していた時期と重なり、ラッキーにも自分の仕事を手伝ってもらうことになり、すぐに復帰でき、お客様に大きな迷惑をかけずに済みました。
1年間一緒に働いてくれた後、彼は独立した。お礼にトラックを譲りました。
自分は生まれて初めて新車2トンの箱型ゲート付きの車を手に入れました。
死ぬまでにクラウンに乗りたかったが、夢に終わった
残念ながら彼も3年で辞めてしまった。
その後遠くに行くと売れそうな気がして、鳥取市内や、倉吉迄営業に出掛けていました。
交渉に本部に行き担当バイヤーさんと条件を決め、必ず店の下見をしていた。
遠いところは、午前3時に家を出ていた。
7時には現地にはいり準備に2時間かけて、開店を待ってお客様の研ぎを預かるのが、毎日の仕事でした
大変でしたが、「もう来る頃だ」と言ってもらえる事で元気をもらっていました。
会話の中で「良く切れる」とか,「ありがとう」の声を聴くたびに、生き甲斐を感じ、もっと元気で長く続けて行きたいと思いました。
現地のパートさんも大貫刃物の顔となり、3か月周期でまわっていたので、行く日が近づくと「いつ来るの?」とよく聞かれたそうです。
平成20年代に入り顧客の数も増え、案内ハガキを毎回出していけなくなり、お店と交渉して年間スケジュールを決め、4度目から1割引のカード作り、次回をお知らせしてお客様に管理してもらうようにしました。
その頃には、行く先々で、なくてはならない人気者になり、大変重要しされる存在でした。
地元、兵庫県は勿論、岡山県北部、京都北部、スーパー、Aコープ、道の駅などで店頭販売、刃物研ぎ屋として38数年、2度の入院と台風、雪、以外は休む事無く続けてこられたのは,健康な体に生んでくれた両親のおかげと感謝しています。1ヶ月の半分は泊まりでした。
多くの人々に愛され喜ばれてきましたが、昨今、高齢者の交通事故が増え、家族の考えもあり、心残りではありましたが、老いては子に従えのたとえの基に引退させて頂きました。
本当に長い間お世話になり有難うございました。
地方の顔も小野では浦島太郎状態で、近所の人の顔も忘れている程、小野音痴になっていました。
これからは地元の方々に少しても恩返しがしたく、良く切れる包丁、鋏を一人でも多くの方のお役に立てるよう頑張りたいと思っています。
令和元年11月18日自宅にて営業、大貫刃物研ぎ処として今日に至っています。
今後共よろしくお願いいたします。
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大貫刃物研ぎ処
兵庫県小野市本町651
電話 090-1589-8781
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