アレクサンダー・テクニークのレッスンを再開した。
去年、数回受けたところで仕事の忙しさのあまり通うことがむずかしくなり、結局会社は休職したが、レッスンは中断したままになっていて、とても心残りだった。
そろそろ社会復帰を考え始め、会社に戻るまでのあいだに、定期的にレッスンに通おうと思い立った。
中断していたあいだに、身体を緩める感覚はすっかりわからなくなってしまっていた。
再開1回目では、がちがちに固まった自分の身体に戸惑った。
でも、レッスンの終わりには、楽に息が吸えるようになっていた。
そして今日は、再開2回目。
去年のいろいろな体験を通じて、中心線や、グラウンディングということはわかってきたように思う。
ただ、自分の身体に関する思い、あるいは自分の身体に対する評価とでもいうものだろうか、それは何が起きても、いつまでたっても、「へにょへにょの薄っぺら」から抜け出せなかった。
自分の身体が信用出来なかった。
つまりのところ、どうしても自分の身体が好きにはなれなかったのだ。
レッスンのときに大きな鏡に正対しても、直視できない。
あまり見たくない。
今日、初めて、自分の身体を直視できたように感じた。
しっかりと骨が積み上げられた身体。
安定感のある身体。
自分の身体をそういうふうに感じた瞬間、何かが変わった気がした。
本当はしっかりした自分。
力強い自分。
それをまっすぐ見る自分。視線を受け止められる自分。
自分に対する身体感覚が変わった瞬間、こころが変わった。
「わたしはこういう人です。」と発しているものが、変わったのだ。
「薄っぺらで頼りない」というセルフイメージを捨てることが出来なかった。
それにしがみついて、それに甘えていたのかもしれない。
そこにいることが、自分にとって安全だったのかもしれない。
でも、そんな理屈はどうでもよくて、とにかく単純に簡単に、身体感覚が変わった瞬間に、こころが変わった。
変わったことがわかった。
その瞬間の驚き!
からだとこころのつながり。
ゆっくり注意深く動いていくとき、「あ、あそこがうまくできなかった。」と思った瞬間、うまくいかなかった部分だけではなく、体全体が緊張する。
うまく出来なかった → 失敗した という思考が、自分の体全体を不自由にする。
気持ち良く緩んでいく部分に注目すると、それが体全体に伝わっていく。
ちからを抜くということ、リラックスするということはこういうことなのか、と知る。
うまくやろうとするから、緊張する。
うまくやろうとしないで、楽しんでやる。やること自体を楽しむ。
数日前にまったく別の場面で受け取ったメッセージが、また現れる。
「思考」が現れた瞬間、身体は不自由になる。
「思考(マインド)を止める」ということ、むずかしく頭で考えても、意識してやろうとしても(当然だけれど)なかなか出来ないことが、ただ単純に身体を感じているときには、すでにそうなっていることに気が付く。
そのときの自由な感覚。
こころ、からだ、ではなく、ただ単に、わたし全体が自由。
どうして、なんで、何を求めて、自分が休職したのだろうと思っていた。
自分でもあまりにも唐突な行動だったので、それでどうなったら戻れるのかわからなかった。
休職してすぐ穂高に行った。
そのときの切符を見て思ったこと。
そのとおり。
自由になる旅へ出るためだったんだ。
なんだ、知らないうちにちゃんと出発していたじゃないか!