今日は、友だちの友だち、の方と交換セッション。
初対面の人にセッションするのは、これが初めてと言ってもいいわけで。
でも、来てくださった方がとってもきさくな方で、なんとかテンパラズニできました。
交換セッションということで、クラニオをさせていただいた後、アロママッサージと、クリスタルヒーリングを受けさせていただいた。
こんなにしてもらって、ホントに贅沢だ~。
しかも、自宅で。
自宅っていうのはやっぱりいい。
セッションが終わったあと、帰らないでいいというのは、極楽。
クリスタルヒーリングというのは、初めての経験。
終わったあとはすっきりとして呼吸の通りもいいなあという感じだったが、ひとりになったとたん、急に眠くなってきてそのままソファで爆睡3時間。
このまま朝まで寝たい気分だったけど、金曜の夜もソファで朝まで寝てしまったので、頑張って起きた。
目覚めた後もすっきり元気だけれど、思いのほか強力なものだったかんじがする。
クラニオの練習をぼちぼちと再開してみたけれど、あらためて、「・・・」が出てくる。
無料でさせていただく練習とはいえ、やるからにはちゃんとやりたい、とか考えてしまうのだが、そもそも「ちゃんと」ってどういうことなのか。
その気負いが、かえって「介入」する結果になってしまうように感じられる。
最近思うのは、まじめにやるつもりなら、自分のからだを鍛えるべきじゃないのか?とか。
別にクラニオするのに力はいらないのだけれど、やっぱり「健全な肉体に健全な魂は宿る」ではないか、と。
もうちょっとひきしまったしなやかなからだになりたいと思うし、そもそもすぐに身も心もへたるのはいかがなものか。
日々の生活から健全にしていきたいなあと思うのだが。
(ちゃんと会社に行きたいし(~_~;))
普段の生活は別人格(というかセッションするときだけ別人格なのか)、という人もたまにいたりするけれど、私は普通の生活の一部分としてというか、普通の生活の中のつながりとして、ボディワークが出来る人、いや、ボディワークも出来る人、になりたいと思う。
特別なこととしてではなく。
会社員の生活を辞めるつもりもない。
もちろん自分ひとりで生活を全部支えてかなきゃいけない、っていうのが一番大きい。
それに加えておそらく、会社員の生活とボディワークをするということと、両立することが私にとっては意味のあることのように思える。
スピリチュアルなんてことにまったく関心の無い人たちの感覚を忘れたくないし、そういう人たちに何かの機会に私が学んでいることを話すことがあったとしたら、わかりやすく、理解できる範囲の言葉で話すことが出来るような感覚を常に持っていたいと思う。
特別な言葉を並べ立てるのではなく、日常の言葉で説明する、説明できる。
そのためには、どのあたりまでが普通に受け入れられる、理解できる範囲の言葉なのか、という皮膚感覚が必要だと思う。
ごくごく普通に会社で愚痴をいいながら働くという感覚も忘れたくないと思う。
この先、お金をいただいてセッションが出来るようになるのはいつのことかわからないけれど、1万円の重み、ということを忘れたくない。
たとえば、ひとり暮らしのOLさんが給料の中から1万円を払う、ということはどういうことなのか、1万円を稼ぐということはどういうことなのか、その感覚を忘れたくない。
ここ数年、特に去年くらいからいろいろなセッションを経験していくうちに、いつのまにか「1万円?安いねぇ。」という自分がいることに気がついて、なんか違うかもしれない、と思った。
なんとなく、自分の感覚がずれていやしないか、と思ったのだ。
高いセッション料金を取ることがおかしい、と言っているわけではない。
お金はエネルギーだし、等価交換と考えれば、それなりの料金設定も理解できる。
私がやりたいと思うこと、私にあっていることはそういうことじゃないなあ、と思うだけのことだ。
特別なことではなく気軽に受けてもらえる敷居の低い週末ボディワーカー、とでも言おうか。
それを支えるためにも、やっぱり会社は辞められないわけだ(~_~;)