レイキの伝授を受けたのは、1対1の個人ではなく、集団、セミナー形式だった。
そのセミナーの中で、他の受講生の長所をあげるというワークがあった。
名前が書かれた紙が人数分、セミナーの最中にまわってきて、その人の良いところを無記名で書く。
もちろん自分の分はまわってこないので、どんなことが書かれているのかは最後のお楽しみ。
セミナーの最後に配られた自分の長所が書かれた紙。
それを見て、「ああそうだよね、そのとおり、思ったとおりのわたしだ。」と思った。
そのまんまの私、いつも自分に対して持っているイメージそのままだと。
感想を聞かれて、なかなかうまく言葉が出てこなかったのだが、
「自分のイメージする自分と、他人から見た自分が、かなり一致していると思った。
それは、自分のありのままを出せるようになってきたのかなと感じる。」
というようなことをしゃべったような気がする。
でもなんとなく、自分の気持ちをうまく表現できていないようなひっかかりを覚えていた。
家に帰ってからもう一度紙をながめてみた。
自分の言った感想も思い出してみた。
自分のありのままを出せるようになった、というよりも、逆に自分がありのままの自分を受け入れられるようになったのだ、ということに気が付いた。
「きまじめ」「まじめ」
私の長所としてあげていただいた言葉の中で一番多かった言葉。
確かに自分でもそう思う。
そして私にとって、「きまじめ」は長い間、自分の短所だった。
自分の嫌いなところ、だった。
「きまじめ」な私は、融通がきかず、許せないことが多くて、他人と衝突することも多かった。
適当にいいかげんにすませることができない。
もちろん、いいかげんな人は嫌いだった。
でも、反面、おもてとうらを使い分けてうまく世の中を渡っている人がうらやましくてしょうがなかった。
そうなりたいけれど、そうなれない自分が悲しかった。
「直球しか投げられないから。」などと、冗談で言ってみたりしていても、今度生まれ変わってくるときは、絶対、「ま、いっかー」で適当に済ませられる人になりたいと、本気で思っていたくらいだ。
「きまじめな私」は今もほとんど変わっていないと思う。
でも今の私は「きまじめな私」のことも、それでいいよ、と許せるようになった。
自分の一部なのに、否定していた。
それを認めて、それでもいいよ、そこにいてもいいよ、と思えるようになったら、いつのまにか、あんなに嫌いだと思っていた自分のきまじめさも案外いいものかもしれない、それは私の長所でもあるよね、と思えるように変わっていた。
きまじめな私は、決して悪いこと・ずるいことはできない、しない。
それはいいことだよね、と思えるようになった。
今の私は、自分の長所として「きまじめ」「正義感が強い」「几帳面」をあげることができる。
それでいいよ。
そこにいていいよ。
「きまじめ」な私のこと、好きだよ、と言ってあげられる。