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大野谷の航空写真

大野谷昔   大野谷今
  二枚の写真は、かつて「大野谷」と呼ばれていた知多市南部から常滑市北部の地域の中心部です。民族学者の柳田国男は「大野」というのは、山のふもとの裾野をいい、水が豊かに流れ、日がよく照らして快活に居住できそうな土地だといっています。古代の人たちは、当時はまだ名もなかった前山川、矢田川が流れて伊勢湾に注ぐ、この広々とした扇状地の全体を大きい野の谷「大野谷」と名づけたものと考えらます。
  右側のカラー写真は現在の様子です。左側の白黒写真は昭和30年代ごろのものと思われます。写真に写っている範囲は、中学校区でいうと知多市旭南中学校区と常滑市青海中学校区・鬼崎中学校区の西之口地区の一部です。
  現在の写真にある知多市立南粕谷小学校、常滑市立大野小学校、三和小学校、青海中学校は、古い白黒写真にはありません。また逆に現在の写真では、知多市粕谷台団地、常滑市青海山団地・北汐見坂団地や産業道路などが作られ、農地は区画整理されたことがわかります。
 今昔の航空写真を比べてみると、高度経済成長によって地域が大きく変貌したことがわかります。古い写真の時代は、知多市や常滑がまだ市制を施行していない時代でした。風景は純農村の景観であり,愛知用水もなく、農地の区画整理も行われていませんでした。また、愛知用水は当初、農業用水や生活用水が主でしたが、現在では名古屋南部臨海工業地域の工業用水の占める割合が大きいです。二枚の写真からは、地域が都市化によってベッドタウンが開発され住宅地が増えている様子が見て取れます。

条里制遺構
  古い白黒写真で久米地区と小倉地区の間の農地が碁盤の目のように見えるところは、奈良時代の「条里制の遺構」です。条里制とは、大和朝廷の律令制が整ってから、班田収授を合理的に行うためにその支配地域の耕地を碁盤の目のように区画し、土地の位置や面積を明確にしたものです。青海公民館の北側にあるマス池は、約百メートル四方の正方形の池で、条里制の跡が今に残る池として残されたものです。