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京極高次
京極高次   小浜城址
  室町期における近江の守護大名であった佐々木京極家の嫡男として生まれた(1563)が、その幼少時は辛酸を嘗めた。既に京極家は家臣であった浅井家に大名の地位を奪われており、高次は信長のもとに人質として送られた。
  名門京極家再興を期待されて成長した高次は、秀吉配下の部将として活躍し、秀吉のあっせんでお初の方を正室として迎えたのは、近江大溝城主一万石の時であった。
  その後、関ケ原の合戦では徳川方に加担し、その功あって若狭八万五千石の領主として小浜に入府した。小浜における業績としては、それまでの後瀬山城を廃し、雲浜に新たに小浜城の築城に着手したこと、また、現在に至る小浜の町割りを行ったことなどがあげられるが、病を発し、城の完成を見ずに、慶長十四年(1609)四十七歳で没した。
 戒名 泰雲院殿前三品相公徹叟道閒大居士
(常高寺パンフレットから)

【小浜城址・小浜神社】
小浜神社   小浜城説明
 観光船や漁船で賑わう小浜漁港から南川をはさんで間近に、高い石垣に囲まれた老樹の森が見える。今は小浜藩祖酒井忠勝(ただかつ)をまつる小浜神社の境内地となっており、天安記念物九本ダモのある小浜城趾である。
 関ヶ原合戦の後、若狭の国主は京極高次となり、慶長6年(1601)に、この地雲の浜に住む漁師たちを下竹原(西津郷)に移住させて築城にとりかかり、京極忠高(ただたか)が寛永11年(1634)松江に転出の後、酒井忠勝が小浜城主となって天守閣の造立に着手し、同13年(1636)10月に完成した。
 それから酒井家14代、238年間の居城となったが、明治4年廃藩置県に際して城内に小浜県庁が設置された。しかし間もなく大阪鎮台分営のための改修工事中、明治4年(1871)12月二の丸櫓から出火し、旧城大部分を焼失して、今は城郭の石垣を残すのみとなった。
 城地総面積は62.492平方メートル、本丸面積10.347平方メートル、天守閣上層(3間×4間)、中層(5間×6間)下層(7間×8間)、総高29メートル、石垣の高さ11メートル、石垣の根廻り18メートルと20メートル。
 天守閣跡には礎石の残存がみられ、西側眼下に小浜湾を望むことが出来る。南・北両河川を城の外堀とし、四方を水で囲まれた要害の地であった。

(わかさ小浜の文化財-図録-から)


【空印寺・酒井家墓所】
空印寺   酒井家墓所
 戦国時代に若狭守護武田元光が、後瀬山に山城を、麓には巨大な屋敷を作った。江戸時代に入り京極高次は、雲浜に新しい城を作り始めたが、それまでは、武田氏屋敷跡を拠点とした。京極家が出雲に転封になり、酒井家が入府し、酒井家の菩提寺として空印寺が創建され、現在に至っている。酒井家小浜藩主歴代の墓がある。
  空印寺の山門は、薬医門と言い市指定文化財。薬医門の前の山麓には八百比丘尼(はっぴゃくびくに)入定洞がある。八百比丘尼は、父が竜宮城から土産に持って帰った人魚の肉を食ベ、いつまでも若く、周りの人が亡くなっていく中で出家し、諸国を行脚。橋を作り、田畑を耕し、病人を救い仏の道を説いた。八百比丘尼は、八百歳で小浜に帰ってこの洞に入り、洞の前にある白い椿が散ったときは亡くなったものと思ってくださいと言ったと伝えられてる。


【八百比丘尼入定洞】
入場地   八百姫説明

八百姫伝説   八百比丘尼伝説
八百比丘尼伝説は、全国各地に多数ある。右の画像は、常滑市前山の諏訪神社境内にある「八百姫神社」に伝わる木版画である。また、知多市南粕谷の大智院境内西側には、若狭の国で不老長寿の薬を授かり、800才まで生きた八百比丘が植えたとされる樹齢1300年余りの大樟(知多市指定保存樹木)がそびえている。

【三丁町】
三丁町   身代わり猿
  三丁町は「重要伝統的建造物群保存地区」内の柳町・猟師町・寺町の三町の総称と伝えられる元茶屋町である。狭い路地をはさみ、紅殻格子や出格子の家や料亭が軒を連ね、三味線の音が流れる。落ち着いた風情のある雰囲気の中に往時の面影を残してた魅力的な通りである。

  町内の家々の軒先に赤い猿を型どった魔除けの「身代わり猿」が吊るされている。
  庚申信仰のご本尊は青面金剛像であり、青面金剛の使いの猿を型どったお守りは、魔除け、厄除けとして町内の家々の軒先に吊るされている。また、庚申の日には、人間の体中にいる「三尸(さんし)の虫」が寝ている間に体から抜け出し、天帝(寿命の神)に悪行を告げ口に行<そうだ。そのため、「三尸の虫」を退治すると伝えられている「コンニャク」を、北を向いて無言で食すれば諸病諸厄を免れる。と、昔から伝えられている。
  三尸(さんし)とは、道教に由来するとされる人間の体内にいる虫。
上尸、中尸、下尸の三種類で、上尸の虫は道士の姿、中尸の虫は獣の姿、下尸の虫は牛の頭に人の足の姿をしている。大きさはどれも2寸で、人間が生まれ落ちるときから体内にいるとされる。


【御食国(みけつくに)若狭おばま食文化館】
食文化館   箸c
  御食国(みけつくに)若狭おばま食文化館と館内展示パネル「人生と箸」
  一階「食文化体験ゾーン」は、御食国(みけつくに)若狭おばまの食に関する歴史・伝統・文化に触れ、食の体験ができる。二階「食工芸ゾーン」は、伝統工芸の紹介と、食には欠かすことのできないお箸に関する展示を行っている。三階「濱の湯」は、温浴施設で、サウナ・マッサージ・露天風呂・海草風呂などがある。


【お水送り】
お水送りA   お水送りB
「お水送り」は動と静、火と水の華やぎの神事だ。夕闇が迫る神宮寺の回廊から、赤装束の僧が大松明を振り回す達陀(だったん)の行に始まり、境内の大護摩に火が焚かれると炎の祭典は最高潮に達する。
  やがて、大護摩から松明にもらい受けた火を手に、二キロ余り上流の鵜の瀬へ向かう。ホラ貝の音と共に、山伏姿の行者や白装束の僧侶らを先頭に三千人もの松明行列が続く。大護摩で最高潮に達した火は、ここで静かな流れに変わり、一筋の糸を引く光の帯となる。
  河原で大護摩が焚かれ、住職が送水文(そうすいもん)とともに御香水をつつから遠敷(おにゅう)川に注ぎ込む。悠久のロマンの中に一瞬のきらめきを残して、若狭の自然と火と水は一体となりお水取りの行われる大和の国に至るのである。

(「お水送り」パンフレットから)

鵜の瀬2   鵜の瀬

お水送り(若狭)とお水取り(奈良)
  西暦七一〇年、奈良に平城京が造られ、聖武天皇御在位の七五二年春に、東大寺において国家を挙げての盛大な大仏開眼供養が行われた。若狭ゆかりの「良弁(ろうべん)僧正」が、東大寺の初代別当(開祖)と言われている。
  若狭神宮寺に渡ってきたインド僧[実忠」は、その後東大寺に二月堂を建立し、大仏開眼の二ケ月前から(旧暦二月)天下世界の安穏を願い、一四日間の「祈りの行法」を始められた。「修二会(しゅにえ)」と呼ばれるこの行の初日は、実忠和尚は「神名(じんめい)帳」を読み上げられ、日本国中の神々を招かれ行の加護と成就を請われたが、若狭の「遠敷(おにゅう)明神」だけが漁に夢中になつて遅れ、三月十二日、修二会もあと二日で終わるという日の夜中に現れた。遠敷明神はお詫びとして、二月堂のご本尊にお供えする「閼伽水(あかすい)」(清浄聖水)を献じられる約束をされ神通力を発揮されると地面を穿ち割り、白と黒の二羽の鵜が飛び出て穴から清水が湧き出した。若狭の根来(ねごり)白石の川淵より地下を潜って水を導かせたと伝えられる。
  この湧水の場所は「若狭井」と名付けられ、川淵は「鵜の瀬」と呼ばれるようになり、古来より若狭と奈良は地下で結ばれていると信じられてきた。その若狭井から「閼伽水」を汲み上げ本尊にお供えする儀式が、大和路に春を告げる神事「東大寺二月堂のお水取り」でありその神約を護り伝える行事が若狭小浜の「お水送り」である。

(「お水送り」パンフレットから)