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若狭小浜にお初(常高院)と八百比丘尼伝説を訪ねるツアーに参加しました。


若狭小浜は、奈良時代以前より天皇家の御食料「御贄(みにえ)」を献上する「御食国(みけつくに)」として栄えた。平安時代には海上交通の要地として、大陸からも様々な文物が流入してきた。また、平安時代の仏像や鎌倉時代創建の寺院が数多く残っている。室町時代には、将軍足利義満への贈り物の象など珍しい動物を乗せた船が小浜に入港した(1408年日本最初の像の上陸)。戦国時代から江戸時代にかけて小浜の領主はたびたび変わったが、京極氏転封の後、老中酒井忠勝が小浜藩主となり、以後幕末まで続く。城下町小浜は若狭の中心として発展した。
知多郡との関係で見ると、一色範氏が貞和元年(1345)それまでの大福寺のあった大野谷の奥に大興寺を建立し、1350年にはその子の範光が青海山に宮山城を築いて城主となった。範光は翌年、岡田に慈雲寺を創建しており、この寺には一色修理太夫範光という刻銘のある宝筐印塔が現存する。貞治五年(1366)範光は若狭国の守護に補任され、永和五年(1379)三河国の守護を兼ねた。範光の死後、嘉慶二年(1388)その子の詮範が三河国と若狭国の守護を継ぎ、応永二年(1395)北粕谷に長慶寺を建立した。さらにその子の満範は、そのころ大草に慈光寺を造営している。
常高院(お初)の生涯
戦国時代、絶世の美女といわれた織田信長の妹お市の方と近江の小谷城主浅井長政の間には三人の娘があった。「戦国悲劇の三姉妹」として有名な、淀君(秀吉の側室、秀頼を生んで大坂城の実権を握った)、お初の方(後の常高院、京極高次の正室)、三度結婚したお江(①最初の夫は、大野城主佐治与九郎②羽柴小吉秀勝と再婚、③徳川二代将軍秀忠の正室、子供は、三代将軍家光・豊臣秀頼の妻千姫・明正天皇の母和子など)である。大名家に生まれたとはいえ、三姫の幼少時は、相次ぐ戦乱の中に有為転変の激しい年月であった。
お初六歳の天正元年(1573)、姉川の戦いで父長政は滅ぼされ、その後庇護を受けていた信長も本能寺の変(1582)であえない最後を遂げ、更にお初十五歳の時、柴田勝家に再嫁したお市の方に伴われて越前に赴いたのも束の間、一年後には賎ケ岳の戦いで秀吉に攻められて、勝家とお市の方は自害し、結局は秀吉に引きとられてその保護のもとに成人を迎えた。


お初の方二十歳の時、秀吉のとりなしで、没落した名門佐々木京極家の嫡男で、当時は秀吉の一部将として台頭しつつあった京極高次(近江高島郡大溝城主)のもとに嫁いだ。
その後十数年を経て関ケ原の合戦においては、近江滋賀郡大津城六万石の城主であった高次は、様々な経緯の末、徳川方に組することとなり、お初の方は姉の淀君を敵に回す立場に立たざるを得なかった。
ともあれ、合戦の功により高次は若狭八万五千石を与えられて小浜藩主となり、お初の方共々、小浜の地に足を踏み入れた。その後、小浜城(水城みずき)築城に着手し、徳川体制が固まりつつあった慶長十四年(1609)、高次は病のため小浜城で没し(四十七歳)、忠高が二代目城主となる。お初の方は直ちに剃髪して、その後、常高院と称した。(四十二歳)
関ケ原の戦いから十数年後の、大坂冬の陣・夏の陣において、常高院は、姉の淀君・秀頼母子を救わんと、家康の命で大坂城へ乗り込んで和議の交渉にあたるのであるが、その努力もむなしく戦火は上がり、幼い時から苦楽を共にした姉や甥の秀頼を失う。


(常高寺は、後瀬山の山麓にあり、境内を国道27号線とJR小浜線が横切っている。「常高寺の山門と石階段の間を電車が走り抜ける」光景に運よく出会いました。)
晩年、江戸に滞在していた常高院は、自らの心の寄り処として、また、夫高次の菩提を弔い、さらには父母等の供養の為、寛永七年(1630)息子の忠高が領する小浜の地に一ヵ寺建立を発願し、幸いにも槐堂和尚との知遇を得て開山として迎えた。かつて秀吉から贈られた化粧料二千四十石のうち三百石を寺領として寄進し、寺の基盤を固めた。しかし病を発して、晋請半ばの寛永十年八月二十七日、江戸にて波乱の多かった人生を閉じた。(享年六十六歳)


遺骸は木曽路を越えて小浜城に運ばれ、常高寺において葬儀が執り行われた。城主忠高を始め、家臣もことごとく喪服にて葬列に参加したという。
常高院(お初)は、姉(淀殿)や妹(お江)に比べるとやや影の薄い存在であるが、戦国の世の悲劇を身をもって体験し、その中で弱い立場のものを救おうとして行動した魅力ある気遣いの人であった。
浅井家の城である小谷城の京極丸で生まれた従兄の京極高次に嫁ぎ大津、小浜と苦楽を共にする。お初にとって小浜での数年間が最も幸福な年月であった。お初42歳の慶長14年、高次が47歳で病没した後、常高院と称することになる。それから5年後の慶長19年「大坂冬の陣」が始まるが、淀君、秀頼親子は徳川の下につくことを拒否する、家康も堅固な大阪城を攻め落とすことが困難とみて和議の交渉に持ち込む。大坂方の使者常高院は、淀君と徳川秀忠に嫁いだお江を思うと心情はいかばかりであっただろうか。
徳川方の阿茶の局という女性同士の和議の話し合いが行われ、和議が成立することになる。翌年「大坂夏の陣」が起こり、火の手が大阪城に迫るときも常高院は、姉と運命を共にする覚悟であった。しかし、徳川方の先陣にいた小浜藩主京極忠高は、母の常高院を城内に残しておくわけにはいかず、屈強な侍数人が城内に入り、無理やり常高院を城から京極の陣へ運び込んだ。
常高寺の「常高寺開基伝」の中に「…江戸に東遊して大将軍秀忠卿、家光公に会謁す。和睦偽謀の事を語りて、半ば恨み、半ば喜ぶ…」と。和睦は偽りごとであったと言っている。常高院自ら奔走して結んだ和議も、しょせんは、徳川方の策略に過ぎなかったという虚しさ、腹立たしさ、そしてこの戦いで姉を失ってしまった悲しさを語っているのであろう。
常高院は江戸の京極屋敷で穏やかな生活を送っている。以前から知遇を得ていた、品川の東禅寺に通い、住職の嶺南和尚から禅の要諦を訊ねたり、父母や夫の高次の供養などをして晩年を過ごしている。その東禅寺で、小浜出身の若い禅僧「槐堂周虎禅師」と出会い、その縁で、京極家の領地小浜に寛永七年「常高寺」建立し、槐堂和尚を初代住職とした。しかし、その三年後江戸の京極屋敷で、享年六十六歳の生涯を閉じる。
ところで、柏原藩筆頭家老佐治与九郎(お江の最初の夫、お初の従妹、母は信長の妹於犬の方、再々婚は信長の末娘於振の方)は、渡辺小大膳女との間に長男為成がいる。為成は、弟中川秀休の養子となっている。与九郎は、為成(大坂の陣で豊臣方についたため柏原に戻ることができなかった)の長男一置を養子として迎え柏原藩家老職を譲り、自らは出家し巨哉と号し、京都で晩年を過ごしている。柏原藩家老である一置は、前の柏原藩織田家が三代で廃絶(後継ぎがなかったため)後江戸で没するが、次男佐治為貞は、京極家丸亀藩士として仕官している。これも、常高院の気遣いがあったからではないだろうか。また、三男置弘は叔父成正の養子となり、近江大溝藩分部家(安濃津城主織田信包の家臣の裔)の家老として仕官している。