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みややまむら 宮山村〈常滑市〉
〔近世〕江戸期~明治11年の村名。尾張国知多郡のうち。知多半島中央部,青海山を含む一帯。地名の由来は,「地名考」には「小倉天神の宮のある由縁に出たる村名なり」とあり,また,融通念仏宗良忍が建立した宮山寺に由来するとも伝えられる(常滑市誌)。宮山寺はのちに金蓮寺と改称して12坊を擁したが,戦国期に兵火のため廃寺となった。室町期には三河一色氏が進出,観応元年に宮山城を築いた。宮山城は大野城ともいわれ,のちの佐治氏4代の居城としてこの地方の中心をなしたが,天正年間に金蓮寺とともに焼失。尾張藩領。横須賀代官所支配。全村蔵入地。村高は,「寛文郷帳」106石余,「天保郷帳」137石余,「旧高旧領」219石余。「寛文覚書」によれば,本田の概高129石余・新田の概高11石余一合計140石余,反別は9町余(田4町余・畑5町余),家数45・人数211,牛馬19。古城跡(宮山城)は東西15間・南北70間。当村では山ぞいのはざまや丘陵地が新田開発され,享保11年,寛保3年,天保3年の開発が知多郡村高帳(知多郡史)に記され,すべて畑地であった。明治初年の戸数95,村社に天満社があるが,往古は大野海岸部にあり帆下天神と称したといわれる。明治6年浄岸学校設立,同9年宮山学校と改称。同11年金山村の一部となる。現在の常滑市金山の宮山地区と青海町の大部分にあたる。

宮山村絵図
宮山村
北東にひろがる丘陵地斜面から平坦地にかけて、集落はこじんまりとまとまっている。東は石瀬村・前山村、南は多屋村・榎戸村、西は西之口村、北は西之口村・小倉村と境を接している。集落の西方丘陵地に古城跡(宮山城)がある。かつて佐治氏が居城していた時代には、東西15間・南北70間の規模をもち、中世においてはこの地方の一つの拠点であったと思われる。寛文年間にはすでに田に変わっているが(覚書)、今ここには佐治神社がある。
 宮山村の水田は、西之口村と接する丘陵地にみられる一か所を除けば、すべて集落に接した平坦地に分布している。江戸時代中期におよそ10町歩余の田畑であり、概して耕地に恵まれない村といえる。山ぞいのハザマや丘陵地に散在している午新田・亥新田・辰新田・見取田畑などの存在は、山を切り開いて新しい耕地を開発しなければならなかった村人の苦労の跡を物語っている。新田のうち午新田は享保十一年(1726)、亥新田は寛保三年(1743)辰新田は天保三年(1832)に開発されたものであるが、それらは全て畑地である。耕地のうち水田の少なさが目につくが、それは水源となる雨池がただ二つということからも理解できる。絵図に記されている寺下雨池・油田雨池は、集落を二分するかたちで築造されている。この二つの雨池はすでに「寛文村々覚書」にも記載されている。丘陵地の山林は96町歩と村の大半を占めるほど広大である。御林・平御林・定納山に区分され、農民は定納山を利用し、生産と生活を営んでいた。
 江戸時代中期に45戸であった宮山村の戸数は、明治の初めには95戸へと倍以上に増加している。当村の生業は「知多郡之記」には「農」としか記されていないが、前山村や石瀬村などの隣村と同じく、この村の人々も農間稼に出ていたにちがいない。
 宮山村の寺院は、集落のほぼ中心、二つの雨池とむかいあったところに位置する浄土宗の清感寺(絵図では清閑寺とある)ただ一つである。神社は氏神天満宮が集落内の西側平坦地に、山神が集落に接した丘陵地にある。そしていま一つの小社、冨士山社が集落からかなり離れた山中にみられるが、そこには天満宮・山神のような社はみられない。「覚書」記載の四社のうち、権現と山之神はそれぞれ冨士山社と山神であり、天神は氏神天満宮であろうと思われる。「覚書」の八幡が当時どうなっていたかは定かでない。墓所は認められない。
 宮山村の戸数は、昭和十三年に92戸、同三十五年に77戸とむしろ減少ぎみであり、生活も村の景観も江戸時代のそれとくらべて大きなちがいはなかったように思われる。しかし、昭和三十九年頃からの集落南西の青海山一帯の開発と、知多産業道路の延長、常滑岡田線道路の開通などによって、宮山の様相は一変することになった。昭和四十五年には284世帯、その後も顕著な増加傾向を示している。