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いしぜむら 石瀬村〈常滑市〉
〔近世〕江戸期~明治11年の村名。尾張国知多郡のうち。知多半島中央部伊勢湾側の丘陵地。縄文中期の石瀬貝塚があり,屈葬した人骨も出土。尾張藩領。横須賀代官所支配。全村蔵入地村高は,「寛文郷帳」「天保郷帳」ともに113石余,「旧高旧領」151石余。「寛文覚書」によれば,本田の概高148石余・新田の概高3石余,合計151石余,反別は10町余(田5町余・畑5町余),家数25・人数126,牛馬10。「知多郡之記」には「業農鍛冶職三州江相越」とあり,農間稼ぎがみられる。村社の熊野神社は紀州熊野神社から村内大屋敷へ勧請したといわれ,現在地へは文久2年移転。曹洞宗全昌院と真言宗中之坊寺がある。全昌院は天文元年大野城主佐治伊賀守の家臣竹村九郎兵衛の創建で当初は瑞竜院と称した。中之坊寺は天正19年の創建,金蓮寺(宮山寺)の塔頭の1つであった。見山寺・能見寺を経て中之坊寺に改称。明治11年金山村の一部となる。現在の常滑市金山の石瀬地区にあたる。

石瀬村絵図
石瀬村
全体にきわめてこぢんまりとした村である。大野村から18町ほど東に位置しており、東は前山村、南は宮山村・小倉村・前山村、西は小倉村・宮山村、北は小倉村と境を接している。家並みは四方を田にかこまれ、村の中央に円形状に集まっている。
 石瀬村の耕地は、本田・見取畑は記されているが、新田の記載は全くみられない。江戸時代の中期から後期にかけて、他の村々が新田開発で着々と耕地面積を拡大していったのに対して、この村においてはそうした動きがきわめて低調であった点が注目される。それは、石瀬村においては、江戸中期までに耕地開発の一応の限界がきていたことを示しているものと思われる(寛文年間、田約5町歩、畑約5.8町歩)。耕地のうち田畑の比率はほぼあいなかばしている。田は集落の北と東に、多くの畑(見取畑を含む)は集落の南に分布している。川のないこの村では、農業用水はすべて雨池に依存しなければならなかった。集落の中にあるヤチイ脇雨池、集落南側にある最も大きな会下脇雨池、そして南の村はずれの不二脇雨池が認められる。それらは、「寛文村々覚書」記載の家内脇池・ゑけ下地・淵脇池に相当する。中期以降に新田開発のほとんどみられなかった石瀬村では、新しい雨池の築造は必要なかったのかもしれない。
 山林を持たないこの村では、控えの山は大根山(他村内飛び地)のうちで9町歩ほどが認められていた。絵図では村の境界線から離れて書かれている。大根山は石瀬村から南へかなり隔ったところにあり、周囲を前山村・宮山村・多屋村にかこまれていた。この地区は現在でも石瀬の飛び地として残っており、江戸時代の状況がそのまま継続している例の一つといえる。
 江戸時代の中期にわずか25戸であったこの村の戸数は、明治の初めには40戸に増加している。当時、戸数の上では熊野村・檜原村・広目村などとともに常滑市域で最も小さな村の一つであった。江戸時代後期、この村に鍛冶職人がいて三河地方へ出稼に出ていたことが「知多郡之記」に記されているが、田畑のきわめて少ないこの村では、そうした農間稼がかなり一般的であったと思われる。
 寺院は、真言宗中之坊が集落西はずれの小さな森の中に、また、曹洞宗全昌院が集落の南に位置している。中之坊(現在の中之坊寺は「覚書」では見山寺、そしてまた絵図とほぼ同時期の「尾張志」では、八景山中之坊能見寺と記されている寺である。この寺は新四国八十八か所の六十六番札所でもある。全昌院は「覚書」では大野村斉年寺の末寺瑞龍院と記されている。神社では集落東端に熊野社また、集落東の畑に山神が書かれている。熊野社は「覚書」に権現と記され、石瀬村の氏神である。文久二年(1862)に現在地に移転している。隣接の他村と同様、墓所は認められない。
 明治の初めに40戸あった石瀬村の戸数は、昭和十三年には33戸に減少している。昭和になっても農間稼を必要とし、生活は江戸時代とそれほど変わらなかった。たとえば昭和六年の出稼調査によれば、宮石地区(宮山と石瀬の総称)からの出稼者は、鍛冶屋27人、酒造4人、綿布工女24人、女中奉公4人、その他12人、合計71人で、農間稼の多かったことを物語っている。昭和四十五年には66世帯に増加しているが、農家が大半(80%)を占めており、農家の生活は、江戸時代の農間稼が恒常的な賃労働に変わった程度でそれほど大きく変化したとも思われない。養護老人ホームや青海中学校が市制施行後建設されたが、変化の比較的少ない地区の一つといえる。