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まつばらむら 松原村〈知多市〉
〔近世〕江戸期~明治11年の村名。尾張国知多郡のうち。知多半島北西部,伊勢湾に面し,古くから白砂青松の海岸を呈した地域。村名もここに由来する。海岸線は比較的まっすぐのび,地先には海底に古代の製塩土器が散布しており,浸食の状況が推定される。尾張藩領。横須賀代官所支配。全村蔵入地。村高は,「寛文郷帳」「天保郷帳」ともに519石余,「旧高旧領」741石余。「寛文覚書」によれば,本田の概高735石余・反別48町余(田31町余・畑17町余),新田概高3石余・反別は畑のみ1町余,家数84・人数453,牛馬32。寺院は曹洞宗妙音院や福寿院,神社は白山社が知られる。集落は,妙音院・白山社を中心にした下松原と,東にある福寿院を中心にした上松原の2つに分かれている。明治11年日長村の一部となる。

松原村絵図
松原村
松原村は名の示すように今も昔も松原の続く白砂青松の地である。この絵図にも藩有林である平御林や、私有林の定納山が海岸線に沿って描かれている。この松林や荒れ畑である見取畑辺りの開発を計画したのは名鉄電車の前身の愛知電気鉄道である。海岸が兵庫県の舞子海岸に似ていることから新舞子と明治末年に名づけ、鉄道を通して(開通は明治四五年(1912)二月一八日)名古屋の別荘地・レジャーゾーンに育成する計画がすすめられた。さて村落は海岸側に妙音院(明音院)、白山社を中心に下松原と、その東の薬師堂(福寿院)を中心に上松原の二郷に分かれており、耕地は南部および東部に広がっている。絵図の山之神四社のうち、南の山之神あたりを、字阿弥陀堂、東の山之神あたりを字小松寺と言っている。小松寺の本尊は薬師如来で、戦乱により寺が炎上したためこれを福寿院(絵図では薬師堂)に移したと伝えられ、今も小松薬師さんとして信仰を集めている。さらに目を東に移すと一部を羽根村地(今は名鉄金沢バス停辺り)で切断され、再び松原地が細長く大興寺村境まで続いており、北東に姥ヶ雨池、その上が保安林である砂留山となっている。現在このあたりは日長台団地の一部を形成している。
 なお、文化元年(1804)八月藩は「張州府志」補訂のため村々より寺社の歴史や村の現状を資料とするため報告させたが、その控が「小島家文書」の中にあるので紹介する。堂社の草創年月として、鎮守の白山権現(絵図の白山社)は慶長一九年(1614)、阿弥陀堂は元禄八年(1695)、毘沙門堂は寛文一一年(1671)、大草村と共有の地蔵堂は約二百年以前と伝えられ、山之神は二社とも不明とある。また村中家数は122軒、人数は635人、山伏が4人(福正院・知寿院・千丈・祐宝)、農業の外に鍛冶1軒、桶師1軒、商人1軒、黒鍬13人となっている。高738石7斗4升5合、惣山9町1反21歩(内 雨池砂留山1町4反7畝21歩、平山1町6反5畝13歩、定納山5町5反1畝12歩、定納起4反6畝5歩)、畑の作物は麦・大豆・小豆・綿・唐黍・粟・稗・黍など記されている。
 また天保一四年(1843)閏九月にも「尾張志」御用のため同様なことを報告している。藩政時代の家数は寛文一一年(1671)84、文化元年(1804)122、弘化二年(1845)134、明治元年(1868)116軒であり、藻取船(3石~6石入)は延享三年(1746)9艘、明和二年(1765)4艘、天明八年(1788)7艘、寛政二年(1790)8艘となっている。