にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ  にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村   にほんブログ村

だいこうじ 大興寺〈知多市〉
知多半島の北西部鍛冶屋川上流域に位置する。
〔近世〕大興寺村 江戸期~明治11年の村名。尾張国知多郡のうち。尾張藩領。横須賀代官所支配。全村蔵入地。村高は,「寛文郷帳」346石余,「天保郷帳」364石余,「旧高旧領」517石余。「寛文覚書」によれば,概高498石余・反別28町余(田24町余・畑4町余),ほかに見取場として畑1町余があり,家数41・人数290,牛馬18,寺院は臨済宗大興寺がある。当地にははじめ大福寺と称する鎌倉初期からの寺があったが,廃寺となり,その後一色範氏開創の大興寺が移ってきた。天保年間と推定される村絵図には,大興寺の西に八大竜王がみられ,「張州雑志」には「八大神社在境内貞応年中勧請卜云」とある。道路は南や西の丘を越えて4本の道が南の大野谷へ通じており,大野谷との強いつながりを示す。明治8年の共和学校分校設立の届には,戸数122。同11年金沢村の一部となる。
〔近代〕大興寺村 明治14~22年の村名。知多郡のうち。金沢村から分村して成立。江戸期の大興寺村にあたる。明治22年金沢村の大字となる。
〔近代〕大興寺 明治22年~現在の大字名。はじめ金沢村,明治39年旭村,昭和27年旭町,同30年知多町,同45年からは知多市の大字。内陸部に発達した当地は養蚕を中心とした副業のみでなく,出鍛冶などの出稼ぎが多かった。昭和40~50年代には新しい企業の団地も造成された。一部が,昭和51年新広見,同53年旭桃台となる。

大興寺村絵図
大興寺村
村の南部、丘陵地寄りの地に西と東の山之神に守られるように人家が集まるこの村は、東西南北ともに山に囲まれ、南方西寄りの一部と西方中央部が開けて、南粕谷村・北粕谷村へと続いている。南部と西部の山林は定納山であるのに、東部と北部の山林は平御林で藩の支配力が強かった。「寛文覚書」には「寺尾土佐守拝領松山二二町」と記されているが、どのあたりであったか今でははっきりしない。寛文年間6ヵ所の雨池は、絵図では8ヵ所にふえている。これ等の雨池は東部に集中し二本の川で西部へと流れるが、北部に雨池がないのは山麓の湧水が多かったためか、深田の故であろうか。これに対して南西部は雨池がなく畑が多い。「知多郡之記」によると「さつまいも近辺売」とあって、いもや野菜類を栽培し大野あたりへ売り出して現金収入をはかったものと思われる。現金収入のみちはこの外に知多の他村と同じく黒鍬稼と酒六稼があった。また北部には午新田が2ヵ所みられるが、享保一一午年(1726)に縄入れ(検地のこと)が行われ17石9斗1升2合の石高になっている。なお、松原村地境として入りこんだ地は、水に乏しい松原村の雨池があるところである。
 村のほぼ中央、丘陵を背にした好適地に大興寺が位置する。鎌倉時代も初期の作という大日如来、永仁年間の墨書銘の有る懸仏などを安置するこの寺は、創建は不詳であるが、貞和元年(1345)一色範氏の再興と伝えられ村の中心的存在であった。範氏は法名を大興寺殿と称し、これが寺の名となったという。岡田村の慈雲寺、大草村の慈光寺、北粕谷村の八社神社などいずれも一色氏との関係を伝える。絵図の南方「原兵」の地名は、村内に一色氏の砦があり兵士の訓練の地であったといわれて現存する。大興寺の西側の八大龍王は「寛文覚書」には記されていないが「張州雑志」には「八大神社在境内貞応年中勧請ト云」と記されており、明治に八幡社となって後に社地も背後の丘の上に遷されて現在に至っている。
 他村へ通じる道路は、四本の道が北粕谷村、南粕谷村を通じて大野村へ向いそのつながりの強さを感じさせるのに、北の岡田村へは曲りくねった山道が一本あるのみである。また東への道は羽根村境と絵図にあるように主として羽根村の飛地への通路であった。