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そうり 佐布里〈知多市〉
知多半島北西部信濃川流域に位置し,中央部に佐布里池がある。地名については,「地名考」には左右杦部のつまった村名で,加世端池の水が東谷(本谷)と西谷に分かれる所に左右2張りの杦があったとする説や,東谷と西谷をさす2つの里を合わせて左右里と称したものではないかとする説がある。また佐布里は焼畑を意味するという説もある。熱田山の東側に弥生後期の遺跡がある。
〔中世〕佐布里郷 室町期に見える郷名。尾張国知多郡大野荘のうち。如意寺大般若経巻第64の明徳3年3月2日付奥書に「尾州智多郡大野庄佐布里如意寺」,同巻50の同年5月20日付奥書に「尾州智多郡大野庄内左布里郷」とある(知多市誌資料編2)。この写経は明徳元年から応永3年にわたって行われ,全600巻のうち大半が当郷の如意寺でなされている。
〔近世〕佐布里村 江戸期~明治22年の村名。知多郡のうち。尾張藩領。横須賀代官所支配。全村蔵入地。村高は,「寛文郷帳」「天保郷帳」ともに1,367石余,「旧高旧領」2,002石余。「寛文覚書」によれば,本田の概高2,000石余・反別111町余(田85町余・畑26町余)ほかに概高2石余(畑3反余)の新田があり,家数185・人数1,115,牛馬85。神社は諏訪明神と五社明神(明治期に多度神社と改称)。寺院は,正法院を中心とした一山が真言宗如意寺と総称され,後鳥羽天皇勅願所として建立,また曹洞宗天徳院がある。民俗信仰の山之神については,「寛文覚書」に5社とあるが,天保年間と推定される村絵図では17社,「張州雑志」では18社と記されている。特産物は素麺。明治22年市制町村制施行による佐布里村となる。
〔近代〕佐布里村 明治22~39年の知多郡の自治体名。大字は編成せず。明治24年の戸数320,男667・女687,学校1。同39年八幡村佐布里となる。
〔近代〕佐布里 明治39年~現在の大字名。はじめ八幡村,大正11年八幡町,昭和30年知多町,同45年からは知多市の大字。明治期・大正期を通じて農業中心で,特に米作の占める割合が高く,酒米としても高い評価をうけている。ほかに菜種・綿が作られ,副業として養蚕が多く行われた。特産の佐布里梅は鰐部亀蔵が桃の木に梅の接木を成功させたもの。一部が,昭和48年つつじが丘,同51年にしの台,同55年梅が丘,同62年西巽が丘となる。
 そうりいけ 佐布里池〈知多市〉
知多市の東部,佐布里地区に位置する池。愛知用水を利用した県営工業用水の調整池として,自然の山や谷を利用し,約24億円をかけ,昭和40年に完成。名古屋南部臨海工業地帯への安定給水に大きな役割を果たしている。満水面積62.1ha,満水位30m,有効貯水量50万㎥,利用水深12m,周囲16km。中心コア型アースダムは,堤頂長180 m堤体積26万㎥。ダムの上には延長150m余の佐布里大橋が架かる。古くから梅林で知られた里で,周囲の環境も整備され,行楽客が絶えない。

佐布里村絵図
佐布里村
三方を丘陵地に囲まれた佐布里村は、ほぼ南端の加世端池(絵図のカセバ雨池)より北へ流れる信濃川の流域(絵図の東田)に広く本田が開け、この谷から西に東に入りこむ沢に人家が分散している。また西北部にもやや小さい谷(絵図の西田-西谷と呼ばれたが現在は宅地化して、にしの台という)があり、谷の奥に人家がみられる。この様に人家が沢や谷に分散して位置するのは佐布里村の大きな特色である。旱害に備えてどの谷の奥にも雨池がある中で、加世端池は一際大きく、池のほとりには滝水権現(寛文覚書にはみえない)があり、村民にとって大切な雨池であったが、愛知用水の引かれた今日では拡大されて佐布里調整池となっている。村を囲む山林は「寛文覚書」には630町、外に滝之水に「寺尾土佐拝領山」12町5反が記され、耕地の6倍以上に相当するが、人家に近い山林が定納山として村民の日常生活に欠かせない薪炭の供給地であったのに対して、奥地の山林は平御林と呼ばれて藩の支配力の強い山林であった。
 村民達は素朴で信心深く、多くの神や仏を祀った。村のほぼ中央部に社寺が集中しており、諏訪明神は今日の諏訪神社であり、五社明神は明治に多度神社となった。正法院を中心に四坊一堂が集まるところは、雨宝山如意寺と総称し、後鳥羽天皇勅願所と伝えて今日も存続する。また天徳院は宝徳三年(1451)の開山で今も同地に伝わるが、久庵軒(久安軒)・東雲庵(洞雲庵)・薬師堂は跡絶えて、この絵図でその面影を偲ぶことができる。更に「寛文覚書」では「山之神五社」と記されているが、絵図では17ヵ所、「張州雑志」では18ヵ所と記されている山之神は、脇と呼ばれる小集落の家内安全、作物豊饒を祈願した小祠で元禄以前の建立が多く、その祭神も多岐にわたっている。
 寛文年間で千百拾数人のこの村の人口は、江戸時代さして変ることがなかった。この絵図が描かれた頃の天保一三年(1842)の村絵図には男544人、女589人と記され18人増に止まっている。「尾張志」などによると、索麺を産し他村に優れて良質であったため藩主に献上されて佐布里索麺と呼ばれた由、また佐布里城があったことを伝えるもその位置は不明としている。