にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ  にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村   にほんブログ村

 あさくら 朝倉〈知多市〉
知多半島の西岸で伊勢湾に面する。集落の中央に縄文晩期の西屋敷貝塚がある。また弥生後期の大廻間遺跡があり,出土遺物は市民俗博物館に展示されている。
〔古代〕朝倉里 奈良期に見える里名。尾張国知多郡贄代郷のうち。平城宮跡から出土した天平元年の木簡に「尾張国智多郡贄代郷朝倉里戸主和尓部色夫智調塩三斗」とあり,当里の者が調を貢納している(平城宮木簡1)。
〔近世〕朝倉村 江戸期~明治11年の村名。知多郡のうち。尾張藩領。横須賀代官所支配全村蔵入地。村高は,「寛文郷帳」「天保郷帳」ともに335石余,「旧高旧領」460石余。「寛文覚書」によれば,本田の概高460石余・反別31町余(田18町余・畑13町余),家数60・人数349,牛馬14。天保14年の村絵図によると,集落は海岸沿いの平地にある。嘉永7年の家数157・人数740,うち11軒・50人が海部郡稲吉新田へ移住している(葉山家文書)。氏神は牟山神社。産業としては漁業が多く,取れた魚は熱田に市場を求め,小規模ながら廻船業もみられた。明治11年新知村の一部となる。
〔近代〕朝倉町 昭和54年~現在の知多市の町名。もとは知多市新知・八幡の各一部。地名は歴史的に古い朝倉の名を残したもの。


朝倉村絵図
朝倉村
朝倉村
この絵図には「天保拾四年(1843)九月」と記され作成年月を明らかにしている。朝倉村「葉山家文書」によれば、東西13町、南北6町の東西に深い村である。北は寺本村、東は佐布里村、南は古見村と境を接している。西方は伊勢湾に面し、海岸はさして広くないが砂浜となっている。村内に川らしい川はなく、田の灌漑用の小川が東の廻間から西に向かって海に注いでいる程度である。北から東、南に回って丘陵地となっており、丘陵と丘陵の間の平地に田畑が開け、灌漑用の溜池は丘陵の谷あいの奥まった個所に7ヵ所築造されている。さして大きな池はない。
 道路は、寺本村から古見村へぬける道(現在の常滑街道)、絵図の蔵春庵のあたりから分岐して古見村へぬける道、丘陵の谷あいをまがりくねりながら佐布里村へぬける道、海岸の集落の間の道などが主要なものである。だが道幅は「往来九尺(2.7m)、郷中壱丈(3m)」というせまいものであった。
 集落は大部分が海ぞいの平地に集まっている。「葉山家文書」によれば、嘉永七年(1854)には、家数157軒、人数740人で、この内11軒、人数50人が稲吉新田へ移住している。なお稲吉新田は現在の海部郡にあり、村内にすでに開発に適した場所がとぼしく新天地を他郷へ求めた人々がいたことがわかる。
 「知多郡之記」によれば、海岸ぞいの家の中には漁師として暮らしを立てていた人々がおり、取れた魚は村内でさばくことができず熱田に市場を求めている。廻船業も小規模ながらあった。輸送の範囲は、名古屋、伊勢、三河方面である。従って村内には船乗りとして活躍した人々もいたと考えられる。
 村の北の丘陵地に氏神があり、ここが「梯子獅子」で名高い「牟山神社」である。神社の寛永十九年(1642)の棟札に「牟山大明神」とあるので「寛文覚書」にある大明神はここをさすと考えられる。「寛文覚書」にある「愛宕」は、絵図にはないが、現在は牟山神社の境内の中、本社のすぐ東にある。