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にしのくち 西之口〈常滑市〉
知多半島中央部伊勢湾岸に位置する。地名の由来は,宮山城(大野城)の西の口の意味とも(張州雑志),宮山城が古くからの金蓮寺の西ノ坊または北ノ坊の位置に築かれたことに関連するとも(常滑市誌),また伊勢大廟の御動座のあった時の船がかりの地(西の出入口)に由来するとも伝える。地内には奈良期・平安期の製塩遺跡である上げ遺跡がある。
〔近世〕西之口村 江戸期~明治11年の村名。尾張国知多郡のうち。尾張藩領。横須賀代官所支配。全村蔵入地。村高は,「寛文郷帳」501石余,「天保郷帳」527石余,「旧高旧領」786石余。「寛文覚書」によれば,本田の概高349石余・新田の概高1石未満,合計349石余,反別は22町余(田9町余・畑12町余),また,枝郷の蒲地の本田の概高367石余・新田の概高21石余,合計389石余,反別は25町余(田12町余・畑13町余),双方合計の家数190・人数840,牛馬58。枝郷の蒲池は,西之口神明社の明応6年・天文7年などの棟札には蒲池村と記されていたといわれ(大野町誌),元和6年の給知状には「蒲池村」「西之口村」と併記されている。また「天保郷帳」には古くは西之口村・蒲池村2か村とある。慶長13年に浜年貢として塩を上納しているが(地方古義),製塩は塩浜が寛永年間に地震で破壊されるまで続いた(常滑市誌)。本郷西之口には天明年間に木綿買継問屋が存在し,享和2年には鍛冶職人16人がいた(鍛冶職人別名前覚書)。また,宝暦3年に大野の浜島伝右衛門が西之口文庫を建てている。村社は伊勢外宮から勧請したといわれる神明社,寺は浄土宗西用軒と曹洞宗微笑寺。西用軒は天正5年以前の創建,微笑寺は18世紀前半地蔵堂から微笑庵にかわったものと思われる。明治初年の戸数307,うち商家44・工家29(常滑市誌)。明治11年大野村の一部となる。
〔近代〕西之口村 明治16~22年の村名。知多郡のうち。大野村から分村して成立。なお,この際に蒲池村は別に立村された。明治18年の戸数226(常滑市誌)。同22年西之口村の大字となる。
〔近代〕西之口村 明治22~39年の知多郡の自治体名。西之口・蒲池の2か村が合併して成立。旧村名を継承した2大字を編成。明治24年の戸数350,男763・女881,学校1。同39年鬼崎村の一部となり,当村の2大字は鬼崎村の大字に継承。
〔近代〕西之口 明治22年~現在の大字名。はじめ西之口村,明治39年鬼崎村,昭和26年鬼崎町,同29年からは常滑市の大字。商工業,特に綿織物業が盛んで,工場数は明治40年代1,大正期8,昭和10年まで1。大正2年愛知電気鉄道大野~常滑間開通,西ノ口駅設置。昭和23~28年にかけて名古屋紡績・昭和紡績設立。一部が,昭和29年大野町,同51年西之口(町名)・住吉町・青海町・小倉町となる。
〔近代〕西之口 昭和51年~現在の常滑市の町名。もとは西之口(大字)の一部。

かばいけ 蒲池〈常滑市〉
知多半島中央部伊勢湾岸に位置する。地名は,蒲の繁茂した池沼が多かったことによるという(常滑市誌)。古くは上蒲池・下蒲池に分かれていたが,下蒲池は海中に沈んだという(張州雑志)。明応6年,享禄4年,天文7年などの西之口神明社の棟札には蒲池村と記されていたといわれ(大野町誌),また,遠山氏の元和6年給知状に「知多郡蒲池村」「同郡西之口村」と併記されているが,近世以降は西之口村の枝郷であった。
〔近代〕蒲池村 明治16~22年の村名。知多郡のうち。大野村から分村して成立。明治18年の戸数127(常滑市誌)。江戸期は西之口村の枝郷で,本郷の西之口村が農業と商工業の混在していたのに対し,枝郷蒲池村は農漁村の集落,蒲池村の枝郷小林地区は純農村の村であった。明治22年西之口村の大字となる。
〔近代〕蒲池 明治22年~現在の大字名。はじめ西之口村,明治39年鬼崎村,昭和26年鬼崎町,同29年からは常滑市の大字。農業・漁業が中心。大正2年大野~常滑間に愛知電気鉄道が開通し,蒲池駅設置。大正10年ラムネ・サイダ,製造の中山会社設立。蒲池を中心とする漁業は,昭和初期はコノシロ・イワシが多かった。戦後も漁業は盛んで,昭和35年の漁業戸数は100。農家は兼業化が進み,同45年第2種兼業は82%を占めた。一部が,同51年蒲池町・小林町,同52年神明町となる。
〔近代〕蒲池町 昭和51年~現在の常滑市の町名。もとは蒲池の一部。


西之口村絵図
西之口村
村のほぼ中央を南北に横断している街道(西浦街道)に沿って田畑がひろがり、海岸の堤一帯は一面の松並木である。集落は街道に沿った村の北部に本郷が、中央すこし東よりにこじんまりとした枝郷小林が、さらに村の南、街道の西には枝郷蒲池がみられる。西之口村は東は宮山村、南は榎戸村、西は海面、北は大野村・小倉村と境を接している。
 西之口村は平坦地が多かったため、早くから開発がすすみ、耕地の大部分は本田で、新田・見取はごくわずか認められるだけである。江戸時代中期には48町余の田畑(西之口約23町歩、蒲池約25町歩)があったが、田と畑はほぼあいなかばしていた。これらの農地へは宮山村境に近い五つの雨池から水が引かれるようになっていた。雨池には味噌田・小山・源廻間・糖子・会下などの名称が記されている。耕地のほとんどは西之口村地内にあるが、北の小倉村にきわめて少しと南の鬼ヶ崎新田から多屋村にかけて飛び地(本田・新田・見取)があり、そこの耕地を灌漑する雨池も築造されていた。なお、絵図記載の雨池の名称は、必ずしも「寛文村々覚書」記載のそれとは一致しない。「覚書」に記された塩浜(塩田)は一八世紀の中頃にはなくなっていたといわれ、絵図では認められない。
 商工業の町大野に隣接する本郷の西之口が、どちらかといえば農業と商工業の混在するところであったのに対し、枝郷蒲池は農漁村的な集落であり、この二つの集落は、どちらも日常生活では独立した単位であった。集落の規模が極端に小さい枝郷小林は農業を生業とした集落で、日常生活の多くは蒲池に依存せぎるをえなかったようである。江戸時代中期の西之口村の戸数は190であった。明治の初めには307戸に増加している。江戸時代の西之口村は、もちろん農業主体の村であったが、本郷西之口には商工業的な色彩が認められた。天明年間(1780年代)に木綿買継問屋が存在したこと、享和二年(1802)には16人の鍛冶職人がいたことが記録に残されているが、こうした伝統は明治以降にも引きつがれたと考えてよい。明治初期の商家44、工家29は、その状況を物語るものといえる。外宮の南には遠山伊豆守の屋敷があるが、遠山氏は宝暦二年(1752)に旧来の由緒により西之口村を給知されている。
 寺院は西之口に西用軒(浄土宗)、蒲池に松仙寺(浄土宗)がみられる。西用軒(現在、西用寺)のすぐ東には小堂の微笑堂(現在、曹洞宗微笑寺)が、そして大野よりの北端に小祠の白山社が位置している。「覚書」に「神明」と記された氏神外宮(現在の神明社)は、遠山伊豆守屋敷のすぐ北にあった。枝郷小林にも、小堂らしきものがあるが、よくわからない。墓所の記載はない。
 明治十八年の戸数は、西之口226、蒲池(小林を含む)127であったが、その後も漸増したと考えられる。昭和四十五年現在の戸数は西之口550、蒲池340、小林60である。戸数の増加に対応して、街道の両側は、大野から榎戸にいたるまですべて、家がたち並んでしまった。西之口は全体として農村的な感じは強くない。サラリーマンが多数を占めていることはいうまでもないが、小売業者や、土木建築・鉄工・綿布業者などもかなりみられ、その点ではかつての状況がしのばれる。