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おかだ 岡田〈知多市〉
知多半島北西部日長川上流域に位置する。地名は地形によるものか。
〔中世〕鎌倉期から見える地名。尾張国知多郡大野荘のうち。美浜町野間の大御堂寺に伝えられている千光寺本「覚禅紗」のうち「千手観音紗」の奥書に「嘉暦四年己巳九月廿四日於尾州智多郡大野庄岡田千光寺」,また「軍荼利明王法」の奥書にも「元徳元己巳年十二月七日於尾州智多郡大野庄岡田千光寺満足坊」とあり(知多市誌資料編2),大野荘内の一村落として形成されていたと想像される。
〔近世〕岡田村 江戸期~明治22年の村名。知多郡のうち。尾張藩領。横須賀代官所支配。全村蔵入地。村高は,「寛文郷帳」689石余,「天保郷帳」693石余)「旧高旧領」1,052石余。「寛文覚書」によれば,本田の概高1,018石余・反別64町余(田48町余・畑15町余)新田の概高9石余・反別畑1町余,家数159・人数969,牛馬78。中央の台地上に臨済宗慈雲寺の名刹がある。神社は神明社が大きく,境内に湯殿権現社も合祀されている。当村は近世以前から里組・中組・奥組の3集落に分かれて成立し,行政・祭礼をはじめ村の生活上の単位であった。知多半島特に西知多は,近世初期から知多木綿の特産地として知られており,当村はそのなかでも木綿買継問屋の中島七右衛門と竹之内源助の両家が木綿の集荷・販売の中心となっていた。近世初期にはいったん伊勢へ移出され,晒加工をうけた上で伊勢晒・松阪晒の名で販売されていたが,天明年間に中島七右衛門が伝えたといわれる晒技術により,伊勢商人への依存から次第に独立し知多晒の名で販売された。明治22年市制町村制施行による岡田村となる。
〔近代〕岡田村 明治22~36年の知多郡の自治体名。大字は編成せず。明治24年の戸数430,男1,006・女1,008,学校1。同27年木綿晒業組合結成,知多郡における木綿商工業の中心地となる。同36年町制施行。
〔近代〕岡田町 明治36年~昭和30年の知多郡の自治体名。大字は編成せず。大正末期~昭和初期にかけて,桑の品種改良など養蚕の最盛期を迎える。米作も昭和初期には農産物の73%を占めるが,昭和8年農村経済更生計画が立てられ,菜種栽培に力が入れられるほか柑橘類の栽培が盛んとなった。戸数・人口は,明治39年446・2,092,大正4年474・2,756。昭和25年の世帯数957・人口5,490。同30年知多町岡田となる。
〔近代〕岡田 昭和30年~現在の大字名。はじめ知多町,昭和45年からは知多市の大字。岡田郵便局は昭和30年に知多郵便局と改称,同40年移転,同59年常滑街道沿いに新築。昭和37年私立大同高校分校を誘致。


岡田村絵図
岡田村
西は森村、南は大興寺村、東は草木村、佐布里村、北は古見村に接している。村のほぼ中央を石子川が東から西へ流れ、その周辺が平地となっており、水田が開けている。村の東、北、南の三方が丘陵地となり、丘陵の廻間に多数の灌漑用の溜池が築造されている。
 道路は、北から村の中央へ入る古見村道、東西に石子川とならんで走る草木村道、羽根村へぬける羽根村道が主要なものである。
 村は東から、奥組、中組、里組の三つの集落から成り立っていた。宗門帳、免割帳などが三組に分かれて記載されていること、祭礼に引き出す山車がそれぞれの組に壱輌ずつあることなどから、三つの組がふだんの村内の生活上の単位であったことがわかる。
 寺院は村の中央にある「慈雲寺」が名高く、「尾張名所図会」には凌雲松を中心に全景が美しく描かれている。種徳庵は慈雲寺の末寺である。神社は村の中央の神明社が大きく、江戸時代より例祭には豪華な山車が三輌集って大変にぎわった。境内には湯殿権現社が合祀されている。「寛文覚書」に記されている阿弥陀堂、毘沙門堂、薬師堂は、絵図には、彌陀堂林、昆沙門、薬師山林とあり、現在もそれぞれ絵図の位置に祀られている。十王堂は絵図には見られないが、現在毘沙門堂のすぐ南に魔王を始め十王仏が安置されている。地蔵堂は現在、字小石山と種徳庵の両方にある。「寛文覚書」の地蔵堂はどれをさすかは明らかでない。
 知多地方は江戸時代より木綿の特産地として知られているが、なかでも岡田村は、木綿買次問屋として中島七右衛門家、竹之内源助家の両家を有し、知多木綿の集荷、販売の一方の中心地を形成していた。知多の木綿は文化頃以前は伊勢へ移出され晒加工を受け「伊勢晒」「松坂晒」の名称で販売されていた。だが、天明年間(1781~88)に中島七右衛門が伝えたという晒技術が導入されると、漸次伊勢商人の依存から独立脱却し「知多晒」としてその名を高めた。生産高も化政期以後大いに高まり、「竹之内家文書」によると、同家の木綿販売反数も天保四年(1833)に年間4万8千反に達し、嘉永五年(1852)には年間15万2千反を記録している。幕末に至りやや停滞するもののそれでも年6万反~8万反の販売を維持している。木綿は晒して白布にするので「尾張白」とも呼ばれ、両買次問屋の手を経て、知多郡、名古屋、伊勢のほか、とりわけ江戸へ多く積出されていた。