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おぐら 小倉〈常滑市〉
知多半島中央部矢田川・前山川の合流点付近に位置し,伊勢湾に近い。奈良期・平安期の製塩遺跡である狐塚遺跡がある。
〔中世〕小倉郷 戦国期に見える郷名。尾張国知多郡大野荘のうち。「康富記」宝徳2年10月5日条に「尾張国知多郡大野庄内小倉郷金蓮寺之憎眼慶去月廿八日来」とあり,当郷金蓮寺の憎が京都の中原康富を訪ね,御影堂の勧進帳の執筆を依頼したという。
〔近世〕小倉村 江戸期~明治11年の村名。知多郡のうち。尾張藩領。横須賀代官所支配。全村蔵入地。村高は,「寛文郷帳」808石余,「天保郷帳」869石余,「旧高旧領」1,157石余。「寛文覚書」によれば,本田の概高1,192石余・新田の概高6石余,合計1,198石余,反別は64町余(田49町余・畑14町余),家数120・人数774,牛馬29,ほかに塩浜3町余とある。「知多郡之記」には新田開発60石余,「業農,鍛冶職,村内ニ而青海苔取」と見える。新田は戌新田で宝永3年の開発,地内は平坦地で早くから開発が進んだと思われる。鍛冶職については,享和2年の鍛冶職人別名前覚に23名の名が記されており(常滑市誌),元禄10年の酒かぶ帳にも長五郎という酒造家が見える。社は「寛文覚書」に社宮神と記された小倉天神社,寺院は時宗蓮台寺とその塔頭の三光院,浄土宗蓮生寺。蓮台寺・三光院は正和3年の創建。蓮台寺は,古くは花園天皇の勅願所として1山17坊の巨刹を誇り,佐治駿河守・織田有楽から寄進されていたが,慶長5年の九鬼の兵火により蓮台寺と塔頭三光院だけが残った。明治6年照心学校設立,同9年小倉学校と改称。同11年金山村の一部となる。現在の常滑市小倉町の大部分と晩台町・大塚町・金山の各一部にあたる地。
〔近代〕小倉町 昭和51年~現在の常滑市の町名。もとは常滑市金山・西之口(大字)の各一部。

小倉村絵図
小倉村絵図
南を流れる前山川と、北を流れる矢田川との間には、開墾しつくされた田畑が大きくひろがっている。この地区一帯を大野谷というが、小倉村もこの谷筋の一村で、集落は周囲を田畑にかこまれて立地している。川向こうの大野村との間には立派な勅使橋がかけられている。村の家並みは大野から久米・前山へ通ずる街道の両側にかたまっている。東は久米村・南粕谷村(知多市)、南は前山村・石瀬村、西は西之口村・大野村・宮山村、北は大草村(知多市)と境を接している。
 この村の地内には、前山村と西之口村の耕地が入り混っていたが、同時にこの村は村外に本田・見取などの耕地(飛び地)をもっていた。絵図から推測すれば、それらの飛び地(雨池・山林も含む)の位置は次のように考えられる。一、南の飛び地(本田)は金蓮寺(小字名)周辺。二、東の飛び地(雨池と本田)は前山川上流の坊田地と坊田(小字名)あたり。三、雨池は、一般に小倉上池といわれる原手他のことで、山林・見取とともに東山(小字名)付近。四、いま一つの雨池は、久米村地内の東太郎(小字名)にあった太郎四池と思われるが、現在では田となっている。これらのうち一、二、三の飛び地は、明治の地租改正でも旧態のまま残され、今日なお小倉の飛び地として継続している。
 村のほとんどは平坦地であったので開発もまた早かった。戌新田と記されている前山川・矢田川沿いの一部が開発されたのが宝永三年(1706)であるから、すでに一八世紀の初頭には小倉村地内のほとんどが開発されていたといえる。江戸時代中期には水田が約50町、畑が約15町とかなり水田化が進んでいた。集落南、川沿いにある承応二年(1653)開発の浜新田は、「寛文村々覚書」記載の塩浜のあった所と思われる。また、集落東一帯の整然と区割された水田のあたりは古代の条里制の遺構を示すものではないかともいわれている(常滑市誌本文編)。雨池は小倉村地内に一つ(枡地)、村外に三つある。わずか16町歩ほどの控えの山林は、前述のように村外にあった。
 江戸時代中頃の戸数は120、明治の初めには160戸あった。江戸時代の小倉村はもちろん農村ではあったが、すでに今日の近郊農村的な様子を多分に持っていたものと想像される。たとえば元禄十年(1697)の「酒かぶ帳」には長五郎という酒造家が、享和二年(1802)の「鍛冶職人別名前覚」には23名の鍛冶職人が記されている(市誌本文編)。また、「尾張志」や「尾張名所図会」には「古き名産なり」として小倉海苔が紹介されている。これらはいずれも副業程度とはいえ、すでに農業以外にも生活の基盤があったことを示している。明治初期には、工業(鍛冶屋が主体と思われる)を専業とするものが15戸もあったが、これなどもそうした事情を物語るものである。
 寺社関係についてみると、集落の西に時宗の蓮台寺・同宗三光院・浄土宗蓮生寺の三か寺がかたまっている。三光院は「覚書」に行正庵と記されている寺である。「覚書」記載の観音堂二つは絵図にはみあたらない。蓮台寺の門前に松が画かれているが、これは「尾張名所図会」に記されている寿山塚(佐治駿河守の墓)と思われる。神社は集落の北に三狐神が祀られている。この社は「覚書」には社宮神と記されている。現在の小倉天神社である。墓所は記されていない。
 昭和十三年の戸数165は、江戸時代のそれと大差ない数字であるが、生業からみれば農業84戸(うち兼業農家51)、商業24戸、工業19戸、その他38戸と、しだいに今日のすがたに近づいている。昭和四十五年にもなると、世帯数は311と大幅に増え、それに対応して集落は、大野から久米に通ずる街道ぞいに大きくひろがり、サラリーマンの町となりつつある。