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さかべ 坂部〈阿久比町〉
  阿久比川中流右岸に位置する。久松佐渡守俊勝の居城という坂部城跡があり,江戸期の「張州雑志」は「東西四十間,南北五十八間,四方二重堀」と記す。
〔中世〕さかべ 戦国期に見える地名。尾張国知多郡のうち。永禄12年12月吉日の経聞坊良雄檀那等譲状に「檀那所尾州智多郡あくい大坊下……一,さかべ〈城久松殿〉」と見える(経聞坊文書/大日料10-3)。これは,白山中宮美濃長滝寺経聞坊良雄が白山参詣の檀那職と田地・屋敷を弟子に譲った際の譲状である。当地には「あくい(阿久比カ)大坊」に率いられて白山参詣を遂げる在地土豪久松氏がいた。
〔近世〕坂部村 江戸期~明治11年の村名。知多郡のうち。尾張藩領。横須賀代官所支配。村高は,「寛文郷帳」「天保郷帳」ともに350石余,「旧高旧領」443石余。「寛文覚書」によれば,概高425石余,反別は田25町余・畑4町余,家数32・人数208,牛馬11。「徇行記」によれば,全村蔵入地,戸数77・人数336,馬8,田は阿久比川沿いの低地に多いが,排水が悪く作柄もよくなく,黒鍬稼ぎや酒造の杜氏に出る者も多かった。氏神の八幡神社は多くの境内社を持つ。久松家歴代の菩提寺である曹洞宗洞雲院は,家康の生母於大の墓で名高い。縁起によると菅原道真の孫雅規(英比麿)の開創という。また,山之神社,行者堂がある。明治11年阿久比村の一部となる。現在の阿久比町卯坂の一部にあたる。


坂部村絵図
坂部村
坂部村は、現在の阿久比町のほぼ中央に位置する大字卯坂の北部である。東は福住村、南は卯之山村、西は卯之山村、草木村、北は白沢村に接しており、北部から東部へ、英比川が流れ、白沢村・福住村とは川を境にしている。東部に本田、西部に御林、中央部に集落や本田畑があり、英比川の東川向こうの福住村寄りに坂部村地がある。
 中央部に位置する集落は、南北を走る道路の西側に多く見られる。村絵図に描かれている庚申森の北にある池は、弘化二年と思われる村絵図の「地原池」である。その池を境に集落は南北に分かれている。北部の集落は、村絵図の惣山本田畑南に描かれているもので、『覚書』には「枝郷惣山村」、また、『尾州知多郡阿古居谷坂部城図』に「惣山村」と記載されている。また、南部の集落は、城図では城をとりまく家臣屋敷址に発展したものである。
 英比川に並行して村の中央部を通る道路は、英比川に架設されている橋を渡り、白沢村を経て名古屋へ通じる往来道である。西の方へ三本のびている道路は、北寄りの道は元倉川堤より米山を経て草木村から岡田村に通じ、中央のは元倉本田から草木村を経て大野村へ、南寄りは、卯之山村から矢田村に通じている。また、英比川に架かる橋は、村絵図には記載されていない。しかし、『覚書』に「土橋六ヶ所 公義橋 懸人足、百姓自分」と書かれている。このことから、名古屋へ達する往来道に取り付けられていた橋をはじめ英比川に架かる橋は、藩が直接普請や修理をする公義橋であると思われる。
 村絵図にある本田(畑)は、往来道東・英比川東・往来道西に沿って分布する。また、新田畑で、開発された年代のわかっているのは、酉新田畑(3ゕ所)で寛文九年(1669)酉年の縄入れである。元倉川の卯之山村境と草木村境に、御林や定納山があり、山麓には新田畑が開かれている。
 雨池の少ないのは、坂部村の特徴の一つである。元倉池は現在の焼山池で、御林や定納山を水源として本田を潤していた。庚申森北の地原池は現在は認められないが、地原池と思われる所から杁が掘り出されているので、そこに池があり、地原崎の本田に水を引いていたと考えられる。
 英比川には、村絵図から杁は認められない。このことから、水田に使用される水は、元倉池と知原池にためられた水と、元倉川や新川の水を利用していた。また、街道と英比川のほぼ中央に川田という溝があり、主として本田の給排水に使われたと思われる。福住村絵図に、英比川の東、坂部村地の福山川に伏越杁がある。この杁は、平野の本田や子新田のためだけのものでなく、福住村と坂部村の落ち合い杁として使用されたものであろう。
 村絵図に措かれている氏神は、八幡神社である。山之神社は村絵図に4ゕ所あり、氏神の近くに2ゕ所現存している。氏神の北には、行者堂がある。
 洞雲院は、菅原道真の孫雅規(英比麿)が天暦二年(948)に開創したと伝えられている。英比麿は、この地に永住して善政を敷いたが、雅規の死後、庶民はその徳を慕い、夫妻の木像を刻んで「廻り地頭」(地蔵)と呼び、各戸へ巡回して供養したという。
 久松佐渡守古城跡は洞雲院の南東に現存しており、『張州府志』によると「東西四十間南北五十間。久松佐渡守俊勝の居」とある。
 ほかの村絵図には塚が、阿ら畑・壱丁田北側・川田西にある。阿ら畑にある塚は月宮姫の墓、通称「お塚さん」といわれている。安政年間の開墾で塚が壊されたが、後に観音像が安置された。この場所は草木川が英比川に流れこんでいることから度々堤防が切れて、あたりの土砂を積み上げ塚になったのではないかと思われる。
 村絵図に阿ら畑の南に墓所がある。