親子関係という縁(えにし)を観るとき、
同時に、ひとはいかに「わたし」として生きるのか、
そんなことを、わたしは考えされられている。
親と言う立場であれ、子と言う立場であれ、
「わたし」という視点が抜けてしまった親子関係は、
歪んでいることが多い、と思うからだ。
先日、娘が就職のために引っ越した。
引越し手伝いを終えて帰るとき、
駅まで送ってくれた娘が、後ろも振り返らずに去っていく。
あっけなく、娘との別れの時間が終わった。
新幹線に乗るとき、
なにげに『独歩』という銘柄の小さな缶ビールを買った。
地元の醸造所が作ったビールだ。
「彼女はもう前を向いて、独りで歩き始めたんだよ」
ビール缶から、そんな声が聞こえる気がした。
娘が昨年、知人友人も縁故もない土地での就職先を決めてから、
「これからは娘は娘の生活、彼女の人生。あの子は大丈夫」
と何回も自分に言い聞かせてはいるが、
最近のニュースで流れる様々な事件報道を見聞きするにつけ、
不安や心配が次々に浮かんでくる。
そして、この胸の奥がツンとするような、きゅんとするような感じ。
振り向いてほしいのに振り向いてもらえない、片恋に似た感じだ。
わたしが今の変化に慣れるまで、ラインで「おはよう」の挨拶を入れさせてね、
「既読」がつけば少なくとも無事が確認できるでしょ、とお願いしている。
娘は「えー」とあまり嬉しくなさそうだったが、
なんとか返信スタンプの一言で応じてくれている。
そうだ、ラインの背景を娘の写真にしてみたらどうだろう。
思いついたわたしはさっそく、実行した。
チャットボックスをずらしていくその陰から、
娘の所在なげな目線がときおりのぞく。
1日やってみて、これはあかん、と悟った。
画像の娘に呼びかけても、当然のことながら返事は返ってこない。
翌日、クマのイラストの背景に変えた。
わたしは、わたしのこれからの時間のことを考えよう。
ビール缶から聞こえた声を思い出しては、
「そうだね」とわたしはつぶやいている。
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