十四
「あれ?、けっこう巧いやん沙希さん」
「ん~~~?。それは嫌味かなぁ?、ん?」
「いや、いや、ちゃいますって。まっ、最初にガーターを連発してた時はどうなることやらって感じでしたけどね。ぬはははっ」
「あ~~~、やっぱ嫌味、っていうか、馬鹿にしてるでしょう?」
「してない、してないっすよ。わははっ」
っと、いうわけで現在とりあえずカロリーを消費すべくボーリングなぞをやっておるわけであるが、俺の方は最初からいきなりストライクを連発し絶好調。沙希さんの方は今述べた通り、ある意味それの逆のガーター連発で、今、やっとピンがまともに倒れたところである。
「だからさっき言ったじゃない。スポーツ関係は苦手なんだって」
「いや、いや、このボーリングに関しては沙希さんは力が入り過ぎてるだけっすよ。ボーリングの玉は投げるんじゃなくて転がすんですよ」
「転がす?・・・って当たり前?・・・あ~、やっぱ馬鹿にしてるな、こいつぅ」
「いや、そうやなくて、意識的に投げようとしてるから力が入るんっすよ。腕の付け根を軸に玉の重さを利用して振り子のように腕を振って転がすことを意識すればちゃんと思ったところに転がりますって」などと、ここで軽い薀蓄なぞを述べると「ふ~ん・・・」と彼女は納得しとるんだかしてないんだか・・・。しかしこの薀蓄が効いたのかどうかはわからんがその直後の一投目で彼女はいきなりストライクを出しおった。しかも「やったぁ~、生まれて初めてストライクがとれた~」・・・だ、そうである。
「なぁんだぁ~、沙希さんってやれば出来る子なんやないのぅ~」
「えへへ~っ・・・って、『やれば出来る子』?。やっぱ馬鹿にしてるでしょっ?」
「もう、やだなぁ~。だ~から、馬鹿になんかしてませんったら。にひひっ」
そしてその後も彼女を馬鹿に、いや、からかい、やなかった、彼女に的確なアドバイス、うんこれだ、を送りつつ一ゲームを終えると「やったぁ~、生まれて初めて八十点超えた~」・・・だ、そうである。ちなみに俺は結局それプラス百点という俺としては実に平凡、うん、平々凡々なスコア、って、これこそ嫌味やな・・・ということでこれは絶対口には出さんとこ。
「あっ、そういえば裕介君って野球やってたんだよね?」
「っつっても中学までっすよ」
「打ってるとこ見せてよ、っていうか、今度は打ち方を教えてくれる?。私振っても全然当たらないのよ」
っつうことで、お次はバッティングセンターへ、といってもここは言わばスポーツセンターなるところで、先ほどやったボーリングはもちろんのこと、他にも卓球コーナーやらビリヤード、外の同じ敷地内にはゴルフの打ちっぱなしやら、これから向かうバッティングコーナーなどがあり、いろいろやってたら、玉だけでなく金までもが飛んでゆくというとっても素敵な施設である。
「それじゃ、まずは裕介君。お手本、お手本」
「あっ、いや、沙希さん、お先にどうぞ」
「あ~っ、それ昔、散々言われた。『沙希は沙希なんだだから先にやりなよ』とか・・・」
「え?、あっ?・・・はいっ?」
「ん?・・・今のは洒落で言ったんじゃないの?」
あっ、そうか・・・。以前、脳内でこれを言って、そのくだらなさに何度か苦笑したことがあったな・・・けど、今のは明らかに無意識やし決して洒落たつもりなどない故その旨を伝えると「そうだったんだ。ごめん。私それを言われること自体は別に気にしてないんだけど、なんていうか、私としては全く笑えないのよね」と苦笑。そして俺も苦笑。
「はい、といったわけで裕介君お先にどうぞっ」って、「どういったわけだ?」とも返せず「ふんじゃ、まあ、久しぶりに一発いっときますかぁ~っ」っつって腰を二、三回左右に捻った後コインを投入しバットを構え「いざ、ゆかん。どこにも行かん。ぷふふっ・・・」などと脳内でチョイと噴出しておったら「ズドンッ」っつって、いつの間にか何かが俺の前を通過したのよ。その『何か』っつうのはもちろん小汚ぇボールのことやが、これが、速ぇのよ。いや、久しぶりということもあり、物凄い速く感じたのよ。そんでその後は「まあ、それでも振らなきゃ当たらねぇ」ってんでとにかく振ったね。うん。振ったんよ。そしたら、いや~、いい音が聞こえたね。「ブ~ンッ」っつって「ズドンッ」っつって・・・。って、当たってねぇやん、空振りやん。う~む・・・こいつは、こっ恥ずかしいぞ。こっ恥ずかしくて沙希さんの方へ視線を向けられんぞ・・・。しかし、ここからが俺が天才たる所以。が、これもしかし誰にもゆえん。ぷふふっ・・・。「ズドンッ」っと、またここで一球損をしてしまったが、この自称天才・・・って、結局『自称』かいっ、を、いつまでも舐めるな、ってんで振りぬいた四球目、いや、五球目やったか?・・・って、まあ、とにかく次の球をようやく、いや、俺天才やから、これが本来の俺と言わんばかりに真っ芯で捕らえることが出来たのである。それで、やっぱ最初は沙希さんもリアクションに困ってたんだろうね。打った瞬間ここぞとばかりに「凄~いっ」っつって・・・。俺は「えへへっ」っつって・・・。
まあ、けどそこからは、これ当然とばかりに玉切れまで空振りもなく五割以上が快心の当たりだったんやけどね。何しろ俺天才やから。飽く迄も自称やけどな。ぬはははっ。
「それでは沙希さん、お次、出番です」
「え?、え~っ。ここ?。今、裕介君が打ってたここで?」
「あっ、なるほど。私を舐めるな、と。この程度のスピードで私が満足できるかっ、と・・・」
「なっ?・・・なわけないでしょっ」っつって、小学生レベルの所を見つけ入るなりすぐにコインを投入しようとしていた彼女。
「ちょ、ちょっと待った~」
「え?・・・な、何?」
「ダメっすよ~。いきなりやると腰だけでなくどっか痛めますよ。軽く素振りしてからいきま・・・しょう、って、手も逆やし・・・」
「え?、え?・・・手が逆って?」
「沙希さん右利きっすよね?。だから構えた時に右手が上にくるようにバットを握らなきゃ」
「ん?、んんっ?。あっ、こうね」
「そうっす。ふんじゃあ軽く何回か振ってみましょう、って、あっ、振るっていっても腰だけ振ってはあかんですよ。小汚ぇボールやなくて、小汚ぇ男達が飛んで来ちまいそうやし・・・だぁはっはっは・・・」
って、「あっ・・・やっぱ俺オッサンやわ」などと思いながら溜息交じりに「ほんじゃ、まあ、本番まいりましょう」っつって、ここで沙希さんは打ち始めた、というか、いわば素振りの続きを山なりに飛んでくるボールに対し始めたわけだが・・・う~む・・・こいつはあるいみ重症やね。在り来たりではあるが「もっとボールを良く見ないとダメっすよ・・・あはっ・・・あはははは」などとは言ったものの逆に目を瞑って振った方が当たるんやないかと思えるほど酷いものであった。これでは本人も感じてるやろうけども見てる俺の方も全くバットにボールが当たる気がせぇへんわ、ってんで、これも在り来たりではあるが「ボールを憎たらしい奴の顔だと思って思いっきりバットで引っ叩けぇ~」っつったら「え?・・・憎たらしい・・・奴?」っと・・・おいおい、考え込んじまったよ・・・。「面倒くせぇ・・・うん。なんや面倒くせぇぞ・・・」っつうことで今度は試しに、っつうかヤケクソ気味に「そんじゃ、ボールを俺の顔だと思ってブッ叩けぇ~」と言ったら「あははっ・・・ちょ、ちょっと、笑わせないでよ。あはっ」とやった後「キ~~~ンッ」っつって・・・「やったぁ、当たったぁ~~~っ!」っつって快心の当たり・・・って、おいっ!。ま、まあ、これは単にさっきまで力が入りすぎておって笑ったことによりその力が良い感じで抜けた結果なんやろうけども・・・なんや不快・・・いや、非常に不快・・・。けど、まあ沙希さんは喜んでおることやし、ここは私情を抑え一緒に喜んでやるか、オッサンやし、いや、もう大人やし。「はいっ、次はボールを俺の玉やと思っていってみようっ!わははっ」・・・って、やっぱオッサンやわ。
その後も空振りは多かったものの、結果的にそれなりに打ち返せた沙希さんはちょい満足気で終えることができたようだ。そして、息を切らし疲労感の漂う笑顔に色気を感じちょっとドキッとしつつ、今朝からの不安はどこへやらといった感じでいつの間にか楽しんでおった俺は「次は何しましょうか?」と笑顔で言った俺とは対照的に、沙希さんはちょっと寂しげな表情で視線を外し「そろそろ、締めにしましょうか?」と言ってきた。
いつの間にか時計の針は午後八時を回っていた。いわばここからが大人の時間・・・。っとここで俺の脳裏によからぬ事が浮かび上がり「そういえば今朝ファミレスにて俺に行き先を促してきおった時に笑ってはおったが『まだエッチィところはダメよ』などと言っておらんかったか?・・・。『締め』って・・・ま、まさか・・・い、いやん」などと思っておったら「お腹は、さすがにまだ減ってないわよね?・・・う~ん・・・それじゃ、喉も渇いたし何か飲んでから帰りましょうか?」と、期待外れ・・・いや・・・いやいや、そのようなことは決して、うん、と、極めて普通のことを言ってきたので落胆し・・・いや、これも違う、快く、うん、快く笑顔で了承致した次第である。
しかし、これくらいの時間ともなると何処も彼処も夜の顔を見せ始め、飲み物がメインとなる所といったら居酒屋くらいしかなく車を運転しておる沙希さんはもちろんのこと、俺自身がアルコールを苦手としておることから、その類の店はみな却下ということになり結局はまたまたファミレスということに相成ったのである。
が、これもしかし、まあ『レストラン』の上に『ファミリー』と付いてるだけあって時間帯によっては餓鬼、いや、小さなお子様や、ファミリーではないがおそらく学生達と思われる奴らが遠慮なしに騒ぎ、つまりはうるせぇ。即ち現在がその時間帯なのであるが、当然ながらこれが全く落ち着かんだけでなく、話しかけては「ん?」、聞いては「ん?」と互いが何度も聞き返すといった感じで極普通の会話すらも巧く通らず「こいつはたまらん・・・うん、たまらんでしょう」っといった感じでとりあえず注文したものを飲み干した後「場所を変えませんか?」「・・・ん?」「落ち着かないから、場所を変えませんか?」「え?・・・何?」・・・「ええいっ、くそっ」ってんで伝票を持って立ち上がり沙希さんの手を引っ張り「出ましょう」っつって辛抱溜まらずとっとと会計を済ませ店を出ると、まるで監獄から出所したような開放感・・・って、実際に監獄に入ったことなど無いが、っと、とにかく物凄い開放感に「ぐわぁ~~~」っつって、思いっきり伸びをしておると「あっ、あのね・・・大事な話があったんだけど・・・」と、急に神妙な面持ちで言ってきた彼女。それで「だ、大事な・・・話ですか?」と、ここで一気にまた別の監獄へぶち込まれた様な気分、って、しつこいようだがそのような類の場所には一度足りとも入った事などないが、俺の中ではこの時「大事な話=僕達の今後」といった公式みたいなものが瞬時に成り立ち別の意味で落ち着かんようになったのである。
そこで動揺を意識的に隠しながら「ま、まあ・・・ここじゃ何だし・・・どっか落ち着く所へ行って話しましょうよ。あはっ、あはは・・・」と、それから暫し無言のまま再び車に乗り込み走ってもらったのであるが、元々、他に行く所がなくてあのうるせぇ空間に入ることに相成ったため、またこれ、どうしたものかと悩んだのであるが「あっ・・・もしかしたら」ってんで「沙希さん。あそこ行ってみましょう」と言うと「え?・・・あそこって何処?」とまあ、これ当然の返答。
「ほら、あの、沙希さんの働いてる長寿庵の近くに喫茶店があるじゃないですか?」
「ああっ『憩』のこと?」
「そうです、そうです。あそこのコーヒーがメチャクチャ・・・」
「美味しいわよね」
「へっ?・・・い、行ったことあるんですか?」
「うん。行った、というか仕事の帰りに何度か寄ったことあるよ」
「一人で?・・・」
「ううん。お店の人と一緒だけど・・・なんで?」
「あっ、いや・・・」
「んっ?・・・ああっ、ひょっとしてあのマスターの例の話かな?」
「え?・・・ええ、知ってましたか?」
「うん、知ってた。というか何回か行った後に周りの人から聞いて知ったんだけどね」
「あっ、そういえば、そうそう、沙希さんに長寿庵で初めて会ったあの日。店から出た後、突然土砂降りになって雨宿りにあそこに入ったのが最初やったんですけど、俺もその時はそんなこと全然知らなくて後で聞いたんですわ。けど、あのマスター物凄く礼儀正しくて良い人だったんで、そのこと聞いた時もなんかピンとこなかった、というか、どうでもいいって感じでしたわ」
「そうそう、私も」
「んなら、話が早い。今からあそこに行ってみませんか?・・・って、それはそうとこんな時間にやってるかな?・・・」
「う~ん・・・どうだろう?・・・私が仕事帰りに寄った時はたいてい九時前で、その時はやってたけど・・・まあ、けど、とりあえず行ってみましょうか。ここからならそんなに時間かからないし」
とはいえ、その時すでに時間は午後九時を回っていた。まあけど、やってなかったらやってなかったでそのまま帰ればいい・・・って、そういうわけにはいかんかったんやっけ・・・。「う~む・・・『大事な話』とは、やはりアレなんやろか?」っと、またここで不安が蘇る、っつうか、ある意味これは逃れられないの・・・か?。まあ、この彼女を好きか嫌いかでいったら決して嫌いではない。それゆえ以前までの俺であればもしかしたらこのままとりあえず、うん、とりあえずなんてこともあり得なくはなかったやも知れん。しかし、しかしだ。今は、というか、今思えば俺は恋愛に興味がなかったというよりもやはり恋愛感情自体が良くわかっていなかった、つまりはきっと俺は今まで本気で人を好きになったことがなかったのであろう。それゆえに、今さら自分自身を自ら弁明する気なぞはないが、俺が今までいろんな娘と付き合ってきたのもある意味それに対する『探求』やったとも言えるのではなかろうか。そしてつい最近、俺にとっては衝撃であった美月への本性、というか、なんというか、想いが突然変化を遂げたのか、それとも元々自分の中にあった想いに突然気付いてしまったのかは未だわからぬが、あの時、あの瞬間までの俺は恋愛感情というものに興味を失せていたわけではなく、その探求、つまり『探究心』に疲れが生じただけとも考えられるのである。
などとこのように柄にも無く、いや、元々俺はロマンティストやから、このような思考を当たり前の様に働かせておったら突然「着いたよ」と横から言葉が飛んできた。そこでハッと我に返った俺は思わず「何処に?」などと言ってしまいそうになり気付いたら、なんやわけのわからん清々しい気持ちでニヤけておったわ、俺。
ここ、『憩』に来ると決めてからここへ来るまで時間にしたらおそらく五分程度しか費やしておらんと思うが元々の時間が時間やったしな、などと思っておったら「電気が点いてたし多分まだやってるんじゃないかな?」と沙希さんが言ってきたので、すぐに車から降り先に確認しに行くと入り口のドアに『配達中』という看板がぶら下がっており、その下には『宜しかったら中でお待ちください』などといった言葉が添えられておった。それで「ん?・・・これって、いちをはまだ営業はしてるってことだよな?・・・」と、微妙な表情で立ち尽くしておるとちょっとだけ遅れて「どう?、やってる?」と沙希さんがやってきて俺と同様に立ち尽くす・・・。
そして暫し「どないしよう」「どうしましょう」などとやった後に「まあ『中でお待ちください』って書いてあることだし、いいんじゃない?。入ってましょうよ」と沙希さんがとりあえずの結論をだしたところで「あ~、これはこれは、いらっしゃいませ」と、背後から聞き覚えのある声が聞こえてきおった。まあ、いうまでもなくその声の主はあのミスターパーフェクトことマスターだったのであるが「あの~、まだ大丈夫ですか?」と、いちを確認の為に聞くと「ええ、大丈夫ですよ。どうぞ、どうぞ」っつって、ポットを片手にドアを開け二人を快く招き入れてくれた。
相変わらずというかなんというか時間帯に限らず店内は年中こんな様子なんやろか?、と思いながら貸切状態のような店内のソファーに腰掛、水とお絞りを持って再び「いらっしゃいませ」と言ってきたマスターに向かって「あの~、何時までやってるんですか?」と聞くと「あっ、はいっ。閉店時間はまちまちと申しましょうか、決まっておりませんので、遠慮なくごゆっくりなさってください」と疲れなど一切見えぬ穏やかな笑顔で返してきたもんで「あっ、いや、閉店時間がわからんと、ある意味、逆に落ち着かんのやないですか?」などと言いそうになったが、更に「それより、お待たせして申し訳ありません。近くの会社で残業をなさってる方達がよくコーヒーを注文してくださって、今夜もそちらの方へ御運びしておりましたもので・・・お時間の方大丈夫ですか?」っつってきて「あっ、いや、だ~から、気になってるのはこっちの時間やなくてそっちの時間、っつうか閉店時間やっちゅうねん」と思っておると「いえ、私達も今来たばかりだし全然気にしなくていいわよマスター」っつって応対したのは沙希さんであった。これには「ん?・・・んんっ?・・・なんやこのフレンドリーな雰囲気は・・・?」などと、これまた思っておるとマスターに向けておった笑顔を急にそのまま俺の方に向け「さっ、何飲む?裕介君」とまるで話を切り替えるように俺に言ってきた彼女。
慌てたね。うん。何や知らんけど「え?・・・ええっと、はい」っつって慌ててメニューを広げ慌てました。けれど彼女の方は、えっと・・・『優柔不断』の対義語って何やったっけ?・・・っと、まあとにかくその反対で「カプチーノ」っつって即決やった。ますます慌てたね。うん。慌てました・・・って、それはそうと『カプチーノ』って・・・またこんな時間に手間の掛かりそうなものを頼みましたね・・・などと思いながら、俺の方はそれとは対照的というかなんというか、遠慮がちに「アメリカン」と注文。
う~む、それはそうと、この時間帯にこの雰囲気の中におる男と女。こいつぁ間違いなく『ただならぬ関係』とまではいかぬが勘違いされることは必至やな。いや、しかしここへ来ることの言いだしっぺは己やったし勘違いされるといっても他にはマスターしかおらんしこんなことはさほど気に留めるほどのことではないのではなかろうか?・・・と、待てよ、それはそうとそもそもここ、っつうか、あのうるせぇ所から更に落ち着く場所を要しここへ来るきっかけとなったのは・・・ってんで、早速「あのぅ~、ところで大事な話って?」と、唐突に沙希さんに問うと「え?・・・う~ん」と暫し唸った後「まっ・・・まあその話はコーヒーが来てからにしましょ」と、もったいぶる、というか、内容自体が話しづらいことなのであろうか、困惑したような表情の上に無理矢理に笑顔を作りそう言ってきた。・・・ま、まあええんやけどね・・・うん。元々、俺はせっかちな方ではない、っつうかマイペースな性格やし、それにその『大事な話』の内容自体が例え己の予想通りのものであったとしても、ここへ来るまでの車中である意味『悟り』を開いたというか、恋愛における己の心中というものがはっきりとわかったゆえ出す答えもはっきりと決まっておるし、まあ、慌てんでもええのよ。うん。しかし、その己の中の時間はともかく気になるのはこの店の時計なのよ。つまりは、もう十時前、即ち、いくらミスター、いや、マスターが「ごゆっくり」と申して下さっても限度というものがあるのではござんせんか?、っつうことですよ。
ぬわぁ~、なんや落ち着く所に選んだ『憩』という空間がこれではちっとも落ち着かんぞ。何か話そうにも沙希さんからは「とりあえず今は話しかけないで・・・」的な雰囲気が漂っておるし・・・。う~んこれではさすがに間が持たん、っつうことで店に入ってから既に三本目のタバコに火をつけると「アメリカン、お待ちどう様でした」っつってマスターがやってきて、更に「申し訳御座いませんがカプチーノの方はもう暫くお待ちくださいませ」と加えてきた。「ほら言わんこっちゃ無い・・・やっぱ時間がかかる、っつうか、手間がかかるんっすよ、カプチーノ」などと思っておったら「ところで、裕介君ってさ・・・」と、長い沈黙を破って、というかなんというか、沙希さんがやっと口を開いてきて「ん?、コーヒーも俺のだけとはいえ来たことだしいよいよか?」などとチョイと身構えておると「一人暮らしだよね?」と、まったく関係ない?、話を繰り出してきた。
「え、ええ、いちを・・・」
「一人暮らしってさぁ・・・寂しくない?」
「へっ?・・・う~ん、どうだろう・・・『寂しい』ってこと自体あまり考えたこと無かった・・・かな?」
「え?・・・寂しさって感情でしょ?。考えなくても湧いてくるものじゃないの?」
「あっ、いや、まあそうなんですけどね・・・なんていうのかな、俺の場合、っつうか、なんていうか、その寂しさよりも一人になれたっつう開放感の方が強いんですかね・・・だから考えたことがなかった、いや、だから感じたことがなかったんじゃないですかね・・・」
「そうなんだ・・・」
「あっ、ひょっとして沙希さん、これから一人暮らしを始めようと思ってるの?」
「えっ?・・・う~ん・・・」
「けど、まあ男と女は、また違うと思いますからねぇ、そのことについての相談なら男の俺より実際に一人暮らしをしてる女性に聞いた方が・・・」
っと、ここで勝手に先走った感じで調子に乗って話しておると、また先ほどのような困惑顔で、しかし今度はそれに笑顔は乗せず「ちょ、ちょっと待って、違うのよ」と沙希さんが言葉を制してきて「ん?・・・んん?」とやっとったらこのタイミングで「カプチーノお待ちどう様でした」っつってマスターがやってきたもんだから己自身も困惑顔。
う~む、ここで暫しまた沈黙の時が流れることと相成ったゆえミスターにしては、これ、不覚を取ったんではあるまいか?。いや、しかしこれはたまたまというもの。マスターにしてみれば不可抗力、って、そんな大袈裟なものではないが、単に少しでも早く注文の品をお届けにあがっただけなのである。つまりは、これ、筋違いというもの。それで「すんませんマスター」「ごめんなさいマスター」「御免なすってマスタード・・・ぷっ・・・」っつって脳内で遊んで、いや陳謝などを致しながら間を持たせておると「実はね・・・裕介君・・・」と、これ意外と、っつうか思っていたよりも早く沙希さんが口を開いてきたもんでホッとしつつも「はっ、はい?・・・な、何で御座いましょう?」と、このような馬鹿丁寧な返答で焦りを見せてしまうことと相成った。するといきなり「ぷっ」と噴出し「『何で御座いましょう』って、旅館の女将さんかなんかみたいね。あははっ」と笑う彼女。
「ん?。今の面白ぇか?・・・これやったら、さっき己の脳内で言っとった『マスター』を『マスタード』に変えたやつの方がよっぽど面白・・・くねぇな・・・。冷静に考えればこんなん苦笑の苦の字しか出てこんし口に出すこと自体も恥ずかしくてでけんやろな・・・うん。って、いや待て。今はそんなんどうでもええねん。早く本題を御願いしますよ、沙希さん」などと思いながら、苦笑の苦の字を必至に堪えながら、なんとか暫し一緒に「あははっ」と、やっとったら、唐突に表情を変え「あっ、実は私・・・」と、ちょっと伏せ目がちに再び先ほど言おうとしていたと思われる言葉へ連なりそうな物言いをしてきおったので、今度は先ほどのように焦るまい、っといった気構えで「はいっ?」と、だけ答えると「裕介君に謝らなければならないことがあるの」っと、きたもんだ。これでまた、崩れたね。うん。というのも、僕ぁ、てっきりここで告白めいた言葉が飛んでくるもんだとばかり思っとったもんやから、いわば、速球を待っとったバッターがチェンジアップで前のめりになって空振りしたような感じやろね。これ、実に格好悪い、っつうか、何を自惚れておるんやって感じで実に無様よね。うん。っと、こうなるとやはり「どういうこと?」っといったような単純な言葉すらも出てこんようになるのよ。それでここは致し方なし、ってんで、自惚れておった己の羞恥心に耐え何も言わず首をかしげておったら「私、嘘をついてたの・・・御免なさい・・・」と、いっぱく置いてから言ってきた。これにはさすがに「ん?、どういうこと?」と、俺も自然と言葉を発すると「この間、裕介君に渡した電話番号・・・あれ実は実家の番号じゃないの・・・」と、非常に深刻な面持ちで返してきた。「な、なんやもう。何事かと思えばそんなことか。そこまで深刻にならんでも・・・ん?。それはそうと・・・ということは・・・」ってんで「あっ、なんだぁ、それじゃ沙希さんも一人暮らしだったの?」と軽く聞くと「ううん。今は大学生の弟と二人で暮らしてる・・・」と、未だ深刻な面持ちなまま言ってきたもんだから「な、なんや・・・理由あり・・・ですか?」などと思い、ちょいとこっちまで深刻な面持ちへと変貌すると、それに気付いたのか「あっ、言っとくけど、両親は実家の方で健在だし、私達も決してその実家から追い出されたとかでもないからね」と言って軽く笑ってきた彼女。
「へっ?・・・あっ・・・ああ、そ、そうなんですかぁ・・・」
「あっ、やっぱ、なんか理由ありかと思った?」
「い、いや、別に、そんなことは・・・」
「あははっ。裕介君ってわかりやすいわね。あはっ」
「へっ?・・・あっ、あのぅ・・・ひょっとして眉毛触ってるのわかりました?・・・」
「え?、何?・・・眉毛?・・・って・・・?」
「あっ、ああっ、いや、それはこっちのことで何でもないです。あははっ。あっ、そういえば沙希さんの弟って何年生ですか?」
「えっと、四年生で今度の春にはいちを卒業の予定なんだけど・・・」
「ああっ、それじゃウチの妹と同い年やないですか?」
「あっ、けどウチの弟、一浪してるから年齢は一つ上じゃないかしら?。けどあの子、ちゃんと卒業できんのかしら・・・」
「いや、沙希さんの弟なら、もちろん会ったことはないですけど真面目そうな感じがするし大丈夫やないですかね?」
「う~ん・・・真面目、ねぇ・・・」
「え?・・・違うんですか?、っつうか沙希さんとは全く性格が違うとか?」
「・・・ある意味、私に似てない方が真面目になるんじゃないかしら・・・」
「?・・・へっ?。ええっ?・・・それは一体どうゆう・・・?」
「・・・あのね・・・唐突なんだけど・・・」
「はっ?・・・はい?」
「さっき『私達は実家から追い出されたわけじゃない』みたいなこと言ったじゃない?」
「ええ・・・あっ、はい・・・」
「黙ってても近いうちにすぐわかることだし、っというか裕介君には今日付き合わせちゃったし言っとかなきゃならないんだけど・・・実は私、来週にはその『追い出される』の反対で実家のある名古屋に引き戻されることになってしまったの・・・」
っと、これには「『来週』って・・・唐突もいいところやんっ」ってんで、思わずっつうか極自然に「えええ~~~っ!。突然、ど、どうしてですか?。な、なんでそんなことにっ?」っと、驚愕まかせに気がついたらけっこうな大声で沙希さんに向かって叫んでおった俺。しかし、それに対し沙希さんの方は冷静、というか、その理由を言おうか言わざるべきかの判断を思考しておるような感じでまた暫し黙り込んでしまった。
「あっ、いや・・・言いたくなければ理由は言わなくてもいいですよ。はい。来週って聞いてちょっとびっくりしちゃったもんで・・・つい声が・・・」
「ううん、いいのよ・・・私、あの長寿庵で働く前にОLやってたんだけど・・・」
「あっ!・・・いや、ホント、話したくなければ・・・」
「ううん。今日、裕介君に付き合ってもらったことにもちょっとだけ関係してるかも知れないし・・・それに話すことで私自身もスッキリしたいし聞いてほしいのよ」
「そ、そうですか・・・そういうことなら・・・」
「あのね・・・私・・・そのОLやってた時に実は上司の人と不倫しちゃったの・・・つまり、私は愛人だったわけね・・・」
「!・・・」っと、全くの予想外の話にこれには絶句である・・・。しかし、しかしだ。その行為自体は確かにいけない事。そんなことはわかり切ってはおるが、ここで驚愕してしまうのは何か違う・・・と、そんな気がして出来得る限り表情も変えずそのまま聞いておると「それで、その関係が一年以上続いたんだけど・・・その上司の人は子供も居るし奥さんと別れる気もなかったから『そろそろ潮時かな・・・』なんて思い始めたその矢先に以前から不審に思ってたらしい奥さんにバレてしまって・・・結果的にそれが原因で会社を追われることになってしまったんだけど・・・まあ、会社自体はその人と別れる時に自分から辞めるつもりでいたからいいんだけどね・・・でも奥さんにバレたことでウチの両親にまで迷惑をかけてしまって・・・。それで、その事があった後すぐに帰ってくるように言われてたんだけど、まだ帰りたくなかったから弟と一緒に住むことと期限付きという条件でこっちに居させてもらってたの・・・。で、その期限切れがとうとう来週ってわけ・・・」っと、ここまで一気に話すと彼女は一度軽く溜息を吐きタバコに火を点けた。その時、俺の方はというと、彼女が話している間は軽い相槌、話が途切れたこの際には「そうだったんですか・・・」と、その一言しか発することが出来なかった。
いやぁ~、なんともショックというか、意外というか・・・いや、意外過ぎるやろ、この話の展開は・・・。これを聞いた直後は「人は見かけによらぬもの」などという言葉も浮かんできおったが、逆にこういう娘の方がこういったことに陥りやすいのやも知れぬな。うん。しっかし何やろ・・・それ以前に互いが時間にして今日一日、いや、半日分程度の相手しか知らぬのにこの話自体を俺に向けてする『必要性』がどこにあったのであろうか?。・・・っと、待て。そう考えると、その前に俺とこうやって会ったこと自体もそれと何の繋がりがあるのじゃ?。それとも繋がりそのものは全くないのか?。・・・う~む、これに関してはいくら己の中で思考しておっても埒が明かぬ、というか、この思考自体が無駄であるとも言える。となれば、やはりここは沙希さん自らがそのことについて話してくるのを待つしかないであろう。うん。などと、これも己の中だけで結論づいたところで突然「あ~、なんか話したらスッキリしてお腹空いてきちゃったぁ~。マスター、『ナポリタン』出来る?」と、自らが言葉にした通りスッキリした様な笑顔で言う沙希さん。
なっ?・・・。ま、まあ確かに、スッキリも何も時間的に腹が減ってくる頃、って、現に己自身も空腹感が出てきたところであるが・・・にしても『ナポリタン』って・・・もう午後十時半を回ってますよ・・・もうちょっと手間の掛からないものにした方が・・・などと思っておったら即座に嫌な顔一つ見せず、っつうか、沙希さん以上の飛びっきりの笑顔で「かしこまりました」と、マスター。『かしこまりました』言っちゃったよ・・・しかも「御一つでよろしいですか?。そちらの御客様も宜しかったら御遠慮なく何でも御注文なさってくださいね」などと言ってきたので、ここは別の物を頼むより同じ物の方が手間を最小限に抑えられるだろう、ってんで「それじゃ僕も」っつって・・・思わず『僕』なんて言っちまったよ『俺』。っと、そんなことよりも先ほど思考しておった『必要性』についてである。なにゆえに彼女が俺にこのような話をしてきたのかその答えが知りたいのである。しかし、今になって気づいたが、店内には以前とは違いクラッシックではなくジャズが流れておって、それとセッションするかの如くマスターが「ジュー、ジュー。ガチャ、ガチャ」と炒め物、っつうか、先ほど注文したナポリタンを炒めておる音が鳴り響いておって・・・って、つまりは沈黙。俺だけでなく沙希さんの方も次に吐き出す言葉に詰まっておるのであろうか、二人とも黙り込んだまま目すら合わせられずにおることと相成ってしまっておるのである。そこでいつものように「なんや、これでは、っつうか、この状況は傍から見たらまるで何年も付き合ってた恋人同士が最後の夜を過ごしておるようではないか?」などと脳内で現状況を第三者的にとらえ何とか気を紛らわようと試みたりなどしたのであるが、これが全く笑えん、っつうか、それどころかますます気が重くなってきおった。
これ、どうにもならんのよ。沙希さんのしたことを肯定するわけにもいかん故、励ましの言葉をかけるわけにもいかん。かといって、思い切って今の話題を一掃し全く関係ない話をふれられる空気でもない。と、なればここはやはり待つしかないのよ。この空気を作ったのは彼女やし、その彼女自らが再び何かを語ってくるまで俺の方からはどうにもでけんのよね。などと思いながらこの心境を決して表に出さぬように困惑しておると、そこへ『セッション』を終えたマスターが「ナポリタン、お待ちどう様でした」っつってやってきて更に「こちらはサービスで御座います」とサラダまで付けてくれた、いや、くださった。おそらくこの時も俺だけでなく彼女の方も複雑な心境の中におって、お互いが「いつもすいませんマスター」とだけしか言えんかったのであるが、その際に目が合ったことがきっかけ、というか、結果的に二人に笑顔をもたらしこの場の空気が一転することとなり
「そういえば・・・さっきの話とは全然関係ないんだけどさ、この間一緒に居た人って友達なの?」と、そこから別の話題の口火を彼女の方からきってきた。
「へっ?・・・この間?・・・一緒に居た人?」
「ほらっ、ウチの店に初めて来た日に一緒に居た人」
「『ウチの店』・・・って?・・・ああっ、アイツね。あの小太りの奴でしょ?」
「ああっ、そうそう・・・って『小太り』で『そうそう』っていうのも失礼よね。あははっ」
「あっ、いや、いいんっすよ。アイツ葛西っていうんですけどね。う~ん・・・友達っつうか以前勤めてた会社の同僚っすわ。アイツはあんな風体してるくせに気が弱くて、しょ~もない奴っすよ」
「そう?。ウチの店には今でもよく来てくれてるけど、そんな風には見えないわよ」
「ああっ、そんじゃ今度、後ろから突然『わっ!』っつって脅かしてみては?。そしたら本性を現しますから」
「あははっ・・・そんなのできるわけないでしょ。はははっ」
とまあ、美味しいナポリタンとサラダを食らいながら他愛無い会話に笑いまで起こり暫し時間を忘れるほどにまでなったが、まずは俺だけ先に食事を終え申し訳ないと思いつつもコーヒーの御代わりを注文し一服しておると、ちょっと遅れて食べ終えた沙希さんがナプキンで口の周りを拭くや否や突然「ねぇ、裕介君って・・・好きな人できたでしょ?」などと言ってきた。これには思いっきり動揺、いや、驚愕して咽たね。うん。なんか特別な薬品を吸い込んでしまったかのように咳が止まらなくなり泣いたね。うん。暫し涙も止まりませんでした。その間、沙希さんはどうしていいのかわからないような感じで「あっ、あっ、ごめん・・・ごめんなさい」と謝りつつも、しっかり「マスター、私もコーヒー御代わり御願いします」と追加しておりました。そして、やっと喋れる状態となったところで「なっ、なんですか?、突然?・・・」と涙目で言うと「う~ん・・・なんとなく・・・というか、初めてあった日の時と印象が大分変わったなぁっと思って、それでちょっと聞いてみたの」と、まるで心が読めてこないような表情で返してきた。それで「な、何っすか?・・・これが『女の勘』っつうやつですか?。にしても鋭過ぎやしませんか?」などと思っておると「けど、心配しないで・・・っていうのも変だけど、私、裕介君には不思議な魅力を感じたのは確かだけどそれ以上の感情は無くて・・・だから今日は付き合わせちゃって御免なさいね」などと言ってきた。
「いや・・・いやいや、謝らんでくださいよぅ。俺、今日楽しかったんですから」
「え?・・・本当?」
「本当ですって。ま、まあ、けど最初はどうなることやらと不安はありましたけどね・・・わははっ」
「あはっ、それは私も。けど、それも含めて今日は楽しかった。・・・私ね、会社をあんな理由で辞めちゃったから、せっかく出来た会社の友達とも会わなくなっちゃって、というか、正確には今でも不倫相手だった人の居る会社の人と会わせてもらえなくなっちゃってね・・・ずっと寂しくて・・・」
と、ここでちょっと先ほどの俺とは全く違う意味での涙目になった彼女。それに気付き「あわわっ、あわわっ」となって何も言えずにおると、そのままの状態で笑顔を乗せてきて「けど、最後に裕介君みたいな人に会えて良かった。本当に有難う」と、しっかり俺に目線を向け今度は礼を言ってきた。真っ赤になった目と『最後に』という言葉に一瞬、愛おしさを感じ、ちょっと俺も寂しさ混じりに「こちらこそ本当に有難う」と礼を言うと、いっぱく置いてから突然、というか唐突というべきか「そろそろ、お互いに新しいスタートを切りましょうね」などと非常に意味有り気に言ってきた彼女。
「あ、新しい・・・スタート、ですか?・・・」
「そう、新しいスタートよ。さっき、裕介君には不思議な魅力を感じたって言ったけど、いつまでも無職でいたら好きな人にも振り向いてもらえないよ」
「へっ?・・・し、知ってたんですか?。俺が無職だって・・・」
「あっ、実はね、ウチの店で、あの同僚の人だっけ?、と話してる時の内容がちょっとだけ聞こえてきちゃったから・・・」
「あっ・・・ああ、そうかっ。けっこうでかい声で喋っちゃったしなぁ・・・」
「で?、戻る、の?・・・会社」
「う~ん・・・正直、迷ってます・・・」
「そう・・・。以前どんな理由で辞めたかまでは聞かなかったけど・・・戻るにしても戻らないにしても、お互い理由があって会社を辞めたもの同士、頑張りましょう」
「そ、そうですね・・・」
「この私達の出会いも無駄にしたくないし・・・お互いに新しいスタートを切りましょうよ。ねっ?」
と、自分、自らをも励ますような笑顔でそう言ってきた彼女。ここで、やっと、というか、俺の勝手な解釈かも知れんが、彼女があのようなことを俺に向けて話してきた『必要性』というものをここで感じることが出来た・・・様な気がした。いや、これは、勝手な解釈、というよりも最高の解釈ではなかろうか?。俺はもしかすると、こういうのをずっと待っていたのかも知れない。現在、俺の周りにいる人間はみな安定した生活を送り、特に、ある意味、一番身近にいた人間である美月に至っては一流会社のエリートで俺は心のどこかで負い目を感じ自分でも気付かぬうちにその負い目と伴にその美月自身の助言に優越感みたいなものも感じてしまって逆らっていただけなのかも知れぬのだ。けど俺は、あろうことか、その美月に・・・。
俺は変わらなければいけないのだ。彼女、沙希さんとの出会いが薄々感じていたものを浮き彫りにしてくれた。俺は、この娘との出会いを無駄にしたくない、というよりも、出会うことが必然であったと信じたくなった。いや、信じたい。と、思った時には俺も「そうですね。『新しいスタート』ですねっ!」と、気付いたらこれ以上にない張りのある声を発していた。
と、そこへタイミングを見計らったかのように「コーヒーの御代わりいかがですか?」と、いつも以上の笑顔、いや、今の己の心情がそのように映えさせたのか知れぬが、マスターがやってきて空になったカップにコーヒーを注いできた。そこで「あっ、いや、沙希さんとの別れが名残惜しくはなってきたが・・・もうこんな時間ですよ」などと思ったが「あっ、こちらはサービスですから御心配なさらぬように」と言ってきて「いや、だから、心配なのは時間やて・・・」と更に思っておると「有難うマスター」っつって笑顔を見せ素直にそのまま受け入れた沙希さん。う~む・・・ま、まあええんやけどね。マスターと沙希さんがいいって言うんなら俺は一向に構わんのやけどね・・・会話がね、うん。巧いことまとまった後だけに続くかどうかも心配なのよね。などと思いながらそのサービスのコーヒーを一口、二口とやってるところで俺はあることを思い出しズボンのポケットの中を弄って一枚の十円玉を取り出した。
「あの、沙希さん。これお返しします」
「ん?・・・んん?・・・十円玉?。何これ?・・・というかどういうこと?」
「あの~・・・実は知ってた、っつうか、わかってたんです・・・」
「え?・・・何が?」
「ほらっ、この間、店で会計をした時、小銭をばら撒いちゃって・・・」
「ああっ・・・」
「それであの時、レジの向こうで十円を拾った振りをして・・・」
「あっ、やっぱわかっちゃった?」
「そりゃわかりますって、あんな所に転がっていくわけないっすもん。あははっ・・・って、あっ、わかっていながら今までごめんなさい・・・」
「あはっ。いいのよ。・・・そっかぁ、私演技がヘタだしなぁ」
「あっ、いや、だからそうやなくて、あんな所に転がっていくわけ・・・って、まあいいや、とにかくお返ししますね」
「うん、わかった。それじゃあ、これはあの時と今日の思い出に使わずに持ってることにする」
「いや、そんな大袈裟にしなくても・・・ははっ」
「ううん。私にとってはこれも良い思い出よ」
と、ここでまた屈託のないとびっきりの笑顔を見せてきた彼女。これには本当に俺も己のことよりも素直な気持ちで「彼女に幸あれ」と願いたくなったのであった。