お家での患者さんのお看取を思い出す中でふと思うこと。
病気、もうすぐ訪れる死を受け入れて残りの時間をオープンに過ごす方
オープンにとは、痛み以外のご自身の気持ちを言葉や、他の方法で表すことができることなんだけど。
痛みのコントロールが上手く行っていれば尚のこと穏やかに生活ができる
最期まで痛い、辛い、苦しいと訴え、ご自身の気持ちを伝えずその時を迎える方もいる
痛みのコントロールが上手く行っていたとしても…
その方たちは、どんな思いでその時を過ごしていたのかなと思う時がある
やり残した後悔
なんで!なんで!という怒りと悲しみ
痛みや苦しさでそんな余裕もなかったのかもしれない
でももし、死に対する恐怖と独り闘っているのだとしたら、それを誰かが「ただ」聴いてくれたら
ギュッと握りしめた手のひらをゆっくりと開くように、その怖さが少しずつ解放されたら、残りの時間はどんな風に過ごせたのかなと思う
孤独は常に感じるし、なんなら孤独なんて当たり前だとワタシは思う
孤独な時間があるからこそ自分を思うことができると思う
だから孤独が悪いとも思わない
だけど、伝えたい思いがあるのに伝えず独り死の恐怖と闘っているなら、そこからちょっとだけでもいいから、ちょっとだけしか役に立たないかも知れないけど連れ出すことができていたならと思う
それが一時だけだったとしても
エゴかも知れないけど
ワタシじゃなくても誰かがそれができたなら
最期の時間を少しでも「私らしく」過ごすことができるといいなと思う
だからこそ、やがて訪れるその時のために、自分のために、自分の大切な人のために気持ちを表すことの大切さを感じている
できることを少しずつ
できることから少しずつ
思いを形に