西武・清水崇行外野手(35)が、今季限りで現役を引退することが3日、分かった。昨オフに巨人からトレードで新天地へ移籍。今季は開幕スタメンに名を連ねるなど期待されたが、若手の台頭などもあり、14年間の現役生活に別れを告げる決意を固めた。

 安打製造器が、ユニホームを脱ぐ。清水は「チームがシーズンを戦っている限り、僕から言えることはありません」と明言を避けたが、球団側にはすでに引退の意向を伝えている模様で、全日程終了を待って正式に発表される見込みだ。

 巨人時代は1、2番打者として活躍し、96、00、02、07、08年と5度の優勝に貢献。07年からは出場機会も減り、「もう一度勝負したい」と志願して西武へ移籍した。4月3日のロッテとの開幕戦(千葉)では、3安打と幸先のいいスタートを切ったが、その後は思うような結果が残せずに5月6日に2軍落ち。再昇格したが8月28日に再び出場選手登録を抹消された後、自らの引き際を考え、引退に傾いたようだ。

 親しい関係者には報告を行った模様だが、CS出場を目指すチームに迷惑をかけたくないという思いからか、首脳陣、選手には報告はしていない。巨人時代から勝つことにこだわりを持ち続けた清水らしい配慮といえる。

 今後については未定だが、通算1428安打を放った技術と経験を生かし、近い将来、指導者として「第2の清水育成」の機会が訪れるはず。巨人を支えた職人が、静かにバットを置く。

 ◆清水 崇行(しみず・たかゆき)1973年10月23日、東京都生まれ。35歳。浦和学院高から東洋大に進み、95年ドラフト3位で巨人に入団。1年目から107試合に出場し、レギュラーに定着。チームが日本一に輝いた02年には巨人のシーズン最多安打となる191安打を放ち、セ・リーグのタイトルを獲得。昨年オフにトレードで西武に移籍した。183センチ、83キロ。既婚。右投左打。

1995年ドラフト 3位で東洋大学 から読売ジャイアンツ入団。ルーキーイヤーから安定した打率をたたき出し、外野手のレギュラーに定着。当初のポジションは左翼、中堅 を兼任。松井秀喜コンバート に従い左翼に定着。不動の2番だった川相昌弘 の出場機会の減少に準じ長嶋茂雄 監督に「バントと併殺が少ない2番打者 」として起用されることになる。

同期入団の仁志敏久 と不動の1番・2番コンビ、中堅の松井、右翼 高橋由伸 と不動の外野陣を形成することになる。「左打ちのため左投手 が苦手」とされ、左投手が先発する日やワンポイント投手に交替すると「2番・左翼」は右打者が出場していた(実際は通算で.270以上打っており、元木大介 などとの兼ね合いと思われる)。そのため2001年 まで高打率を残し1年間1軍ベンチにレギュラーとして留まりながら規定打席に到達しない年を複数回経験している。

2002年背番号 を9に変更。就任した原辰徳 新監督の構想で1番打者に抜擢され、最多安打のタイトルを獲得する。

2003年メジャーリーグ 移籍した松井の穴を埋める中堅手の守備練習や故障などが重なり.240、14本塁打の成績に終わった。

2004年 に就任した堀内恒夫 監督は中堅手に当時成長著しかった斉藤宜之 の起用を明言、元々外野手としての守備力に難があった清水に一塁手 の練習を提案された。斉藤の故障などもありスタメン復帰したものの、2005年 にはセンターラインの強化にゲーブ・キャプラー 外野手を獲得、清水は一塁手の練習に本格的に取り組むことになるが、選手層の厚さから代打 に回される。キャプラーは打撃はもとより守備にも精彩を欠き、4月後半にはキャプラーと左翼を併用され5月には定位置に復帰している。

2006年 、原辰徳が監督に復帰。前年のシーズン途中より台頭した矢野謙次鈴木尚広 、シーズン途中に移籍してきた木村拓也小関竜也 などとの外野のポジション争いが熾烈を極めていたが、監督は「清水・由伸(高橋由伸)は格が違う」と発言、左翼のスタメンを確約される。秋季キャンプで広岡達朗 の指導で課題のスローイングの修正に取り組み、万全の体制でシーズンを開幕したかに思われたが、持ち味である打撃が低迷し続け、打率2割近辺を上下するほどの打撃不振から抜け出せなくなってしまう。

7月26日 にはプロ入り11年目にして初めての2軍での調整試合を経験、再昇格後はセンターやライトでの出場も多くなる。 .216、6本塁打という過去最低の打撃成績となり、大幅減俸を受け入れる。生え抜き野手最年長であった仁志の移籍により、当時の生え抜き野手最年長となった。

2006年に規定打席に到達した外野手はゼロとなり、高橋由と清水は出場機会を確保したものの、矢野や鈴木の台頭、谷佳知の移籍もあり、この年後半以降は不動のレギュラーを剥奪される。

2007年豊田清 と一足早く自主トレに入り、鈴木や移籍した谷とともに「1番候補の一人」として春季キャンプを迎えた。だが怪我により開幕1軍からは外れ、前半戦は不調に苦しみ、1軍と2軍を往復。後半戦に入り徐々に調子を上げていき、スタメンでの出場機会も増えていった。特に9月以降は目覚しい活躍をみせ、少ない打席数ながらシーズン打率.339を挙げた。また、低めだった出塁率もこの年は4割を超えた。

10月2日ヤクルト 戦ではチームを5年ぶりのリーグ優勝を導く内野安打を放ち、中日とのクライマックスシリーズ でも7番センターでスタメン出場、左腕小笠原孝 からヒットを放ちチャンスメイク。第2戦・第3戦は高橋由伸の腰痛による離脱で1番に入り、全3戦にスタメン出場した。

2008年 のオープン戦は再び感覚の狂いに苦しみ、また隠善智也 の台頭などもあり開幕2軍スタートとなった。ファームで結果を出したことや、1軍での故障者が続出したこともあり5月1日に1軍登録され、その日のカープ 戦(東京)の6回裏に代打で登場。08年シーズン初打席でレフト前ヒットを放った。その後も主に代打要員として起用されるが、打率は1割台に低迷するなど不振から抜け出せず、後半戦は一軍出場が無かった。本塁打が0に終わったシーズンは入団後初めてであった。

11月15日、金銭トレードで埼玉西武ライオンズ に移籍。清水自ら志願してのトレードだった。移籍後の翌年1月8日、登録名を清水崇行に変更することを発表した。

2009年 10月4日に現役を引退することが明らかになった。