外国、それもアメリカやヨーロッパ先進国からから韓国を見ると、その長所や弱点を極めて客観的に映し出されていくのでしょう。


昨日に引き続いて、旅客船「セウォル号」沈没事故について、米国在住の作家、ダニエル・ローの見解を紹介します。


韓国のマスコミは、今回の事故について、自国を三流国家と認定し、国内だけでなく、海外に住む韓国人や外国の有識者たちのいろいろな意見を掲載しています。それほどの危機感が抱いているのです。


当然のことでしょう。


日本に住む私たちも、少なからずその遺伝子を受け継いでいるため、素直な心で自らの民族的性格や価値観を自己観照し、真摯に受け止めなければならないのです。


欲望を積んで沈んだ船――「セウォル号」事故に揺れ動く韓国
(ダニエル・ロ―)


目前の「先進国入り」を追って邁進(まいしん)していた大韓民国が集団的恐慌状態に陥っている。325名の高校生を含めて476名が乗り、その中から救助されたのがわずか174名で終わった。大悲劇に違いない。事件以降いまだに韓国のマスコミはその報道に拘っている。永遠に戻れなくなった302名の犠牲者の大半が高校生という事柄から韓国人の悲しみは分かる。

自己責任と関係なく命を失った惨事といえば、1995年にソウルで起きた三豊デパートの崩壊事件が思い出される。その事件では合計508名が死亡及び失踪となった。しかし、今回、事故を巡って韓国国民が表出する反応はまさに恐慌状態、即ち突発的な不安やストレスによる混乱した心理状態に近い。

「我が国にはあり得ない」という発想

なぜなのか。世界史にも類例がないこの事故を前にして、韓国の知識人たちは総出動で百家争鳴している。

まず救命措置を適切に行わずに「子供たちを残して」船を捨てた乗組員に呪いに近い批判が集中している。警察と検察は国民の怒りを彼らに誘導するように捜査力を注いている。朴槿恵大統領はその乗組員の行動を「殺人行為」とまで呼んでしまった。

綺麗事が好きな識者たちは今回の事件と1912年のタイタニック号沈没と

比較しながら、タイタニック号の船長が乗組員に出した「イギリス人らしく行動せよ!」(Be British!) の一言で英雄的行動が取られたことを指摘しながら、今回、「セウォル号」の船長が「韓国人らしく行動せよ!」(Be Korean!) と言ったらどうか、などうんぬんする。皮肉を言う場面ではないが、「セウォル号」乗組員の行動はまさに「韓国人らしい」ものだったという錯雑な気持ちになる。


時間が経つことによって様々な分析と事後処方が出ている。日本の船会社が退役させた船を購入し、それを改造して旅客と貨物の積載量を膨らめた海運会社の経営の後進性が指摘される。また、船舶監督のずさんさと、それを招いた海運業界への官僚天下り、さらにその業界を特定な海洋大学や水産大学の出身者が海運マフィアを作り上げたことなどを指摘する声も大きい。


こういう事態を見ながら、外国のメディアは韓国が過去の類似事件から教訓を得ていないと評価する。だが、60年前に韓国で生まれて成人期を海外で過ごしながら韓国を思索してきた私はこういう評論に閉塞感と憤りを覚える。こういう議論の背景には、今回の事件が「防げるはずのことがマネジメントの失敗で防げなかった」というテクニカル論が燻っているわけである。その論点は正確でないし、あえて言えば卑怯だ。


この「テクニカル失敗論」は、哀悼している韓国人の内心に安堵感を与えているように推察される。この事件がいくら悲惨でも、先進国のレベルに達した大韓民国の根本的な問題ではないという暗黙のメッセージを発している。そうであるとすれば、韓国の民衆は悲しみと恥を忘れて前に進むことができる。実際に、犠牲者の家族たちがよく口にする表現である「我が国にはあり得ない」ことが起きたというわけだ。

沈没事件を引き起こした欲望

果してそうなのか。韓国では事故があるたびに「牛を失った後に小屋を直す」ということわざのありさまを繰りかえす。そして目下、総理が辞任したり、港の旅客ターミナルに韓国が誇るIT技術を導入したり、政争のため法案処理をさぼっていた国会議員たちはバーゲンセールで「民生法案」の処理を約束している。こう動きの深層から読み取れる心理は、今回の船沈没は「偶然の事故であり、今日の韓国社会の本質を反映することではない」という、ある種の自己確信である。だから「我が国にはあり得ない」という発想が可能なのだ。


しかし、これは幻想である。敢て言えばこの事件は、韓国社会の本質の底に光りを当てた。中古船を買って積載量を増やした「セウォル号」船主は目下犯罪者になっているが、このような行動は韓国経済成長の方程式であった。今や世界的ブランドにもなった「現代グループ」が、文字通りベンチャー企業だった1970年代半ば、現代建設が受注したサウジアラビアのジューベル港湾工事のために、巨大な鉄骨構造部をオーナーの決断で韓国からバージ船で運んだことは、韓国人の胸を躍らした。その英雄談には安全規則や技術マニュアルや処理手順などは空念仏だった。

「結果ありき」の価値観なのである。

その価値観は、「セウォル号」にそのまま継承されていたのである。そうした意味で、「セウォル号」を含む数多くの韓国旅客船が大型事故を起こす必要条件は普遍的に存在する。十分条件さえ揃えれば、大型事故はトリガーされる。「セウォル号」事故の十分条件とは、安い賃金の非常勤マドロスと航海士や毀れた救命ボートなどではなく、最大積載量の3倍を積んで船が復元力を失っていたことに尽きる。


その十分条件の要諦は科学ではなく「欲望」である。「セウォル号」は数名の人間の欲望によって不法な「改良」をされ、その欲望充足の機能を果たしながら数多くの人間を水葬したのである。だからこの事故は大韓民国で十分にあり得ることが起きたといっていい。

韓国の「表」と「裏」

日本にあって韓国にないものは数多くあるが、私の頭に常に浮かぶものが一つある。それは「失敗の研究」というものだ。日韓関係に関連して言えば、日本は歴史的勝者であり、韓国は敗者である。なのに、勝者の書店にいくとあらゆる「失敗の研究」がある。だが、敗者である韓国の書店にはそういうタイトルさえ見当たらない。そのわけは韓国人が持つ敗北に対するコンプレックスと拒否反応にあろう。失敗が満ちている歴史を反すうすることより、前に進んで欲望を達成するのが半島という険しい環境で暮らす人々の生活様式なのである。過程は結果によって正当化される。だから親は子どもに「悔しければ出世しろ」と訓戒を垂れる。


こういう文化に着目した日本の研究者は、韓国人と行動の特徴を「パリパリ(早く早く)」という副詞から捉える。しかし、これは半分の理解である。「パリパリ」は行動や事柄の外形であり、理屈をさすことではない。その理屈を表現する副詞は「デチュンデチュン」である。「デチュン」とは「適当に、いい加減に」を意味する。他人に認められるべく、「デチュンデチュン」やって出世を求める韓国人の姿を、「体は現代を生きるが思考と行動は前近代的」であると『朝鮮日報』の金大中顧問は表現する。


私は、この不一致を「韓国文明の表裏のねじれ」と表現したい。「アルバイト」船長以下、全員が拘束されるはめになった「セウォル号」の乗組員は、何か怪物ではなく、ごく普通の韓国人である。彼らの家族の中には、世界に誇るサムソン電子の社員がいれば、キム・ヨナみたいな姉妹もいる。彼らが犯した、規則の無視、プロ精神の放棄、未熟と卑怯は、多数の人命の犠牲という惨事で浮き彫りになったが、彼らの「デチュンデチュン」は韓国エリート層の洗練された行動にも巧みに入り込んでいる。

これくらいにしておきます。

これから、私を含め、韓国人が本当に変われるのか、世界中のいろいろな眼がつぶさに見ているのです。

私たちは、何が何でも変わらなければならない。どれだけ時間がかかろうとも変わる意識をしっかり持たなければならないのです。