松下幸之助さんは和歌山県の有力な地主の家に生まれましたが、幸之助さんが小さい頃、村会議員などを務める地方の名士であったお父さんが相場に手を出し失敗し、家屋敷を全て売って和歌山市内に転居しました。


そこで履物屋を営んだそうですが、すぐに閉めて大阪に単身勤めに出ています。そのため幸之助さんも丁稚奉公にやらされたのですが、お父さんがもし相場などに関わらず、名士のままであったなら松下幸之助が存在したか、どうでしょうか。

丁稚をしていた幸之助さんが11歳の時、お姉さんが勤務していた大阪の貯金局というところで給仕の募集があった。お母さんは幸之助さんを手元で育てたいとの思いから、「この際、給仕をしながら夜間学校に行ってはどうか。お父さんに相談してみるから」と言ったそうです。幸之助さんもお母さんと一緒に住みたいことと学業をしたい思いから、この話に胸を膨らませて、お母さんに「ぜひそうしてほしい」と頼んだそうです。


しかし、お父さんが、幸之助さんに「お母さんから、お前を奉公をやめさせて給仕に出し、夜間学校に行かせたいという話を聞いたが、おれは反対じゃ。今まで通りに奉公を続けて、やがて実業で身をたててほしい。それがお前のために一番よい道や」と言ったそうです。


幸之助さんは、父のこの言葉にうなずき、奉公を続けたそうです。後に幸之助さんは「さすがに父は当をえた考えを持っていたと、自分の今日あるをかえりみて、しみじみ思う」と述懐しています。

幸之助さんがこの時、丁稚をやめて給仕としてお母さんと一緒に暮らし、夜間学校に行っていたなら今のパナソニックがあるでしょうか。


お父さんは、自分が相場で失敗して家族につらい思いをさせていることに大きな心の苦しみを抱えていたのでしょう。だけども、心を鬼にして幸之助さんに丁稚を続けさせ、自分ではもはや不可能となった事業家として成功、その夢を我が子に託したのだと思います。


また、お父さんは、我が子松下幸之助の経営者として資質を見抜いていたのだと想像しますね。


お父さんの言うことにうなずいた幸之助さんも立派ですが、それでも、お父さんの胸中を察するとどれほどつらかったでしょう。


お父さんは病気で51歳の若さで亡くなっています。このお父さんがいたからこそ、経営の神様“松下幸之助”が生まれ育ったのですね。