日本と外国との間に横たわる領土問題は、韓国との「竹島・獨島」、中国との「尖閣列島」、ロシアとの「北方領土」がありますが、総じて日本では領土問題に対する関心が低いように感じます。


「この問題を解決する智恵は私たちにはない。領土紛争を棚上げにし、その解決を次世代にまかせよう。今はむしろ日中関係全体を発展させよう。」日中平和友好条約の締結に際し大きな障害だった尖閣列島の問題に対して、『未解決の解決』という形で提案したのが中国の鄧小平でした。


実は、日中よりも30年以上も前に、日韓条約締結時、竹島・獨島の領土問題を両国はこの『未解決の解決』という手法で解決しようとしたことを知る人はあまりいないと思います。


この領土問題は、韓国では新羅や李氏朝鮮、大韓帝国の時代にまで遡り、日本では江戸、明治時代にどのように扱ってきたかという話しになります。もっともポイントのなるのが、サンフランシスコ講和条約時に日本がサインした契約書の内容です。敗戦によって日本が放棄した領土がどこまでかということになるのですが、これは見解の違いによって双方の主張が真っ向から対立しているのです。その内容をひとつひとつ検証するのはこのブログの目的から反しますのでここでは書きません。


日本でも韓国でも、この複雑な領土問題に関して様々な資料が残されていますがどれが正しいのかはっきりいってわかりません。ここでは、1965年の日韓条約で当時の両国の代表であった当時政権与党自民党の実力者であった河野一郎と日本の陸軍士官学校出身で後の国会議長で朴政権の謂わばNo3であった丁一権(チョンイルゴン)の間に取り交わされた密約のこと、つまり『未解決の解決策』についてお話をしたかったのです。


当時も、今以上に日本も韓国も竹島・獨島は我が領土と強く主張していました。国際司法裁判所への提訴や島の爆破などいろいろな提案がなされていますが、何ひとつ採用されませんでした。そして、日本も韓国も条約を締結することは国益にかない、それを成し遂げるためには、領土問題による障害を何としても取り除く必要があり、最後の手段として次のような『未解決の解決』を試みたのです。


【竹島・獨島問題は、解決せざるをもって解決したとみなす。したがって、条約では触れない。

(イ)両国とも自国の領土であると主張することを認め、同時にそれを反論することに異論はない。

(ロ)しかし、将来、漁業区域を設定する場合、重なった部分は共同水域とする。

(ハ)韓国は現状を維持し、警備員の増強や施設の新設、増設を行わない。

(ニ)この合意は今後も引き継いでいく。】


これによって当時の両国の元首、すなわち佐藤栄作も朴正煕(パク・チョンヒ)も了解し、日韓条約が締結される運びとなりました。1965年の条約締結後の両国の躍進には目を見張るものがあります。特に韓国の経済は「漢江の奇跡」と言われるほど急成長し、今日のサムスンやヒュンダイ、POSCOなど世界的企業を生み出す原動力になったのです。


この時、竹島・獨島問題が障害となり、日韓条約が締結されていなかったなら、今の韓国はないといっても言い過ぎではありません。この時の両国のリーダーの苦労や苦悩は本の中からでも伝わってきますね。