50年前の今日、新潟港から北朝鮮に向けて在日韓国・朝鮮人975人が、北朝鮮の清津(チョンジン)に向けて出発した。その後2年間で、約10万人もの在日が北朝鮮に渡っていった。いわゆる「北朝鮮帰還事業」が開始された日だ。


その中に、朝鮮人と結婚した日本人(主に日本人妻)が1800人含まれていた。戦後、日本が戦争に敗れ、朝鮮半島が解放された後でも日本に残った約60万人といわれる在日韓国・朝鮮人と結婚した人たちだ。しかし、当時、国際結婚は、日本の社会ではほとんど認められることはなく、まして、「朝鮮半島出身者などとんでもない」と結婚に反対する人たちが多かった。それでも強い愛情によって結ばれ夫婦(みょうと)になり、苦しい生活を強いられながら必死になって生きてきた人たちがいたのだ。


北朝鮮は、朝鮮戦争が終わった後、荒廃した国土を復興させるための人材として、在日に目を付けた。巧言令色によって若い在日たちに「北朝鮮は楽園」であることを信じさせ、この帰還事業を推進していったのである。また、当時、日本赤十字や日本政府も、いわゆる“人道的立場”から、この事業を後押しし、また、当時左翼的な論調が目立っていたマスコミ各社もこぞって賛意を送っていたのだった。


在日と結婚した日本人妻たちは、この事業に応じた在日と共に北朝鮮へ渡っていった。当初、日本と北朝鮮との国交はないが、2,3年もたてば、また日本に戻れるだろうと安易に考えていたようである。だが、現実はそう甘くなかった。当時、戦争で国土は荒れ果て、戦前、朝鮮総督府や日本企業が残した鉱山、発電所、工場などがあったものの、それを活用できる肝心の人材がほとんどいないため稼動率も極めて悪く、また、生産性の低い独自の社会主義経済や、山岳地帯が多く慢性的な食糧不足のため、過酷な生活と塗炭の苦しみを強いられていたのだった。


後日、脱北した人が話していたが、「万景峰号」という船に乗り、新潟から清津の港に着いた時、多くの人々は「騙された」と思ったらしい。だが、すでに後の祭りだった。その当時、北朝鮮から日本へ連絡する術がないため、関係当局は続けさまに新潟から帰還船を出航させていったのである。北朝鮮に渡った在日の悲惨な状況を知るには、実に1年以上の歳月を要した。その結果、1959年から1960年にかけて、約10万人が北朝鮮へ帰還したものの、1961年にぱったりと止まり、事業は完全に停止したのだった。


もう、あれから50年、日本人妻の多くは異国の凍土で亡くなり、現在100名ほどしか生きていないと言われている。さぞかし、亡くなった方は生きている間に日本の土を踏みたかっただろう。多くの人が、「頭を日本海のほうに向けて埋葬してほしい」と言っていたそうだ。


今日、私が所属する社団法人移民政策研究所が主催して、新潟港で「追悼集会」を開いた。私は仕事のため参加できなかったが、代表理事を中心に数十人が参加し、しめやかに追悼式が執り行われたようだ。そこで、「平和を祈る僧侶の会」の代表である長野の善光寺の住職に法要をして頂いたそうである。


この帰還事業では、北に帰った在日も日本に残った在日も犠牲者であるが、異国の地でつらく苦しい思いをした日本人妻はそれ以上の犠牲者であろう。一日も早く、かの地に精一杯生きている彼女たち全員が日本に戻れるよう祈りたい。


株式会社淡海環境デザイン

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