珠光闘茶「茶の湯の歴史40」茶の歴史40 | Souki一観一楽有難うの茶の湯ブログ

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教えることが天性と思い、茶の湯関係(点前、茶の湯教科、お茶事、茶の湯の陶磁器、茶杓の実技)を54年間、NHK文化センター大阪、神戸、名古屋などで1999年から延べ4万5千人の方々に茶の湯の極意をお伝えして、2022年4月からオンラインZOOMライブ入門講座を開講中。一茶一楽


上州白久保お茶講の家

わが国の『闘茶』の全盛期は南北朝から室町中期の東山時代にかけてのことと言われています。

まさにこの時期に、『村田珠光』が『闘茶』に耽ったのですから、二十歳のころより寺役を怠り、二十五歳頃還俗したのも無理からぬことでしょう。

ただし、大事なことは、『珠光』が僧として『闘茶』に耽ったことです。

当時は『身分社会』ですから、町人は上流の公家や武家の所に上がることは出来ませんが、僧であれば上流の公家や武家社会の間でなされていた『闘茶』に参加できた可能性があります。

そうなると、八代将軍『足利義政』との接点がまんざらなかったわけではないことが分ります。

それではいつ八代将軍『足利義政』に拝謁したのでしょうか?

『珠光』が僧として『闘茶』に耽っていた二十歳代には、まだ拝謁は出来なかったでしょう。

むしろこの時期、上流の公家や武家社会との関係が出来、「書院飾り」の設えや「お茶」の処方を見て学んだのではないでしょうか。

二十五歳頃還俗した後、商人として出世し、三十歳より「茶の湯」を志して紫野の大徳寺に入り、一休和尚(1394~1481)に参禅した頃から、上流の公家や武家との関係が本格的になったのではないかと考えられます。

その一つの表われが、珠光四十五歳応仁二年(1468)五月『山科家礼記』に記載されていることなのでしょう。

これは公卿山科家と知遇を得るほどに商人として出世したか。または「茶の湯」者を業としたか?分かりませんが、四十五歳頃には商人としても大成、上流の公家や武家との関係が磐石となったことが窺えます。

ではまた。