わが国の『闘茶』の全盛期は南北朝から室町中期の東山時代にかけてのことと言われています。
まさにこの時期に、『村田珠光』が『闘茶』に耽ったのですから、二十歳のころより寺役を怠り、二十五歳頃還俗したのも無理からぬことでしょう。
ただし、大事なことは、『珠光』が僧として『闘茶』に耽ったことです。
当時は『身分社会』ですから、町人は上流の公家や武家の所に上がることは出来ませんが、僧であれば上流の公家や武家社会の間でなされていた『闘茶』に参加できた可能性があります。
そうなると、八代将軍『足利義政』との接点がまんざらなかったわけではないことが分ります。
それではいつ八代将軍『足利義政』に拝謁したのでしょうか?
『珠光』が僧として『闘茶』に耽っていた二十歳代には、まだ拝謁は出来なかったでしょう。
むしろこの時期、上流の公家や武家社会との関係が出来、「書院飾り」の設えや「お茶」の処方を見て学んだのではないでしょうか。
二十五歳頃還俗した後、商人として出世し、三十歳より「茶の湯」を志して紫野の大徳寺に入り、一休和尚(1394~1481)に参禅した頃から、上流の公家や武家との関係が本格的になったのではないかと考えられます。
その一つの表われが、珠光四十五歳応仁二年(1468)五月『山科家礼記』に記載されていることなのでしょう。
これは公卿山科家と知遇を得るほどに商人として出世したか。または「茶の湯」者を業としたか?分かりませんが、四十五歳頃には商人としても大成、上流の公家や武家との関係が磐石となったことが窺えます。
ではまた。