東日本大地震から今日で11年。



あれから11年経ったんだね。

あの時の事は鮮明に覚えている。


あの日私は仙台駅で被災した。

新幹線を降りて、石巻で行われる大会に参戦する為に、仙台駅から仙石線に乗る為に、エスカレーターで地下に降りていた。

その時携帯が鳴った。

携帯を見て、一緒に居た春日に私は

『なんか宮城沖に地震が来るってよ』

って呑気な事言っていた。

それから数秒後、大きな揺れに見舞わられた。


そうだ。私は今仙台に居る…

ここは宮城だ。


地下に居た私もは揺れが収まったと同時に大きなスーツケースを担いでエスカレーターを駆け上がった。

試合道具は大切な物。置いていってはいけない。


電車は止まり、余震が続き、駅から出るように言われ、土地勘のない私達はとりあえず屋根のあるバス停に向かった。


3月の中旬に差し掛かっていたのに、その日は雪が降っていた。

その日私はショートパンツを履いていて、寒かった。

スーツケースからwaveのハーフパンツのジャージを取り出し、ショートパンツの上から履いた。

履かないより暖かい。


春日が持っていたラジオから流れる『津波に気をつけて下さい』とのアナウンス。

仙台駅が海から近いのか、遠いのかも分からず、ただただ佇む。

朝東京を出て、ご飯も食べず、仙台駅に着き、仙石線のホームでお弁当を買おうと思った事を後悔した。

新幹線を降りてすぐお弁当を買うべきだったって。

食べ物を持っていない。

買わなかった事を後悔した。

空腹と寒さに震えてどうしたらいいのか途方に暮れていた。


そんな中でも考えるのは

『今日は試合があるのか?

どうやって石巻に行けば良いのか。』

誰とも携帯は繋がらない。

不安になっていた。


だけどTwitterだけは使えて、GAMIさんとDMでやり取りをしたのを覚えている。

『試合は中止。ホテルは仙台駅の近く。行ってみて』

そんな感じでメッセージが来た。


とりあえずホテルを探す事に。

ホテルに向かう途中、コンビニの外でお菓子を売っていた。

停電しているから、冷蔵物は売れないけど、お菓子なら1人2つまでなら買って良いとの事。

春日と2人だから4つ買えた。

お菓子が食べれるだけでもありがたい。


ホテルに着くと、電気は付かないけど泊まることが出来た。

余震が続く中、怖くて2人で机の下に潜ったりしたのを覚えている。

いつでも逃げられるようにと靴を履いたままベットに横たわった。

ラジオからは『津波で○○町が壊滅的です!』

『○○から炎が上がっています』『原発の4号機が…』と声だけ聞いている。

停電しているので、ラジオからしか状況が分からなかった。

何が起こっているのかは何も分からなかった。

幸い仙台駅周辺は、ビルの壁などが剥がれていたりしているだけで、私の目から見たらそこまでの被害が無かった。


いったい周りはどうなっているんだろう?

不安と共に朝を迎えた。


朝になり食料を調達に街へ。

コンビニはお菓子やカップラーメンなどを売っていた。

一時間以上並んで1人何点かで入手出来た。

お湯とかないけど、お水で食べられるかなと思ってカップラーメンも買った。


春日が違うところで、たくあんが売ってたからと言って買ってきてくれた。

とりあえず食べられる物は入手した。


街中で充電をさせてもらえる場所があり、携帯を充電させてもらったなぁ。

ありがたかった。


そしてホテルに戻ったら、

『ホテルは危険なので出てください』

と言われた。

ホテルを出るしかなかった。

出ても行くところはない。


高速は通行禁止。

新幹線も止まっている。

東京にはどうやって帰れるかも分からない。

とりあえず行く所を探す。


区役所なら被災者を受け入れてくれるかもと思い向かった。

着いたら区役所は配給が終わった後だった。

壁には安否確認の掲示板がずらり。

『仙台市民の皆様へ』

の文字を見て、東京から来た部外者はここに来るべきではないと感じた。

でも、ほかに行く所もない。

人が沢山集まっている区役所で途方に暮れていた。


そしたらまだ仙女所属だった水波から仙台に私たちが居ると知って連絡があった。

『一緒に仙台の知り合いの所に行きませんか?』

と。

仙台で行く宛のなかった私たちはひとつ返事で『お願いします』と言って一緒に連れていってもらった。


知り合いのご家族のお家は停電はしてるけど、水は出るとの事。

それだけでもありがたい。

卓上コンロがあって、コンビニで買ったカップラーメンを作らせてもらった。

飲めるお水は残りが少ないとの事で、カップ焼きそばにお湯を入れて、捨てるはずのお湯をカップラーメンに入れて再利用。

久しぶりに温かいラーメンを食べて、カップラーメンってこんなに美味しいのかと感動した。


その知り合いのお家の周りは被害もなく平穏な感じだった。

だけど、遠くの方で黒い煙が上がっている。

凄い映像を見てないし、地震の被害もあまり無いので、大地震の実感がない。


家主の旦那さんが街に水を調達してくると出かけて行ったけど、街中では水が売り切れ。

アルコール類だけは残っていたからとビールを買ってきてくれた。

『ビールも飲みものです』

と答えた。


実感のないまま余震に怯える日々。

また大きな地震が来るんじゃないと警報が鳴るたびに怖くなった。


ラジオから聞こえる地震の状況を伝える枝野さんの声が日に日に元気が無くなっていくのが分かった。

その時は顔も知らないけど、この人も地震でかなり疲れているんだろうなって事は声だけで分かった。


被災してから3日目に報道の知り合いから、

『仙台に報道で行って山形で泊まる。

また我々は仙台に次の日戻るけど、一緒に山形まで行きますか?』と連絡をもらった。

東京に戻りたいので、山形に行きますと連絡をした。


一緒に車で山形まで連れていってもらい、ホテルに泊まった。

久しぶりのお風呂や温かいご飯に幸せを感じた。


そしてテレビで見た津波の映像。

ラジオでしか状況を把握できなかったから、映像を見た時はあまりの衝撃でショックを受けた。


山形まで行ったら他の知り合いが東京から車で迎えに来てくれた。

4日目でやっと東京に帰ってこられた。


東京もかなりの揺れがあったようで、浜子が警報が鳴るたびに怯えていた。


私も余震が来る度に怖かった。

だけど、私は色んな人に助けられて東京に帰ってくる事が出来た。


感謝しかない。


東日本大地震を経験して、多分気づかないうちにトラウマもあった。

食べ物を持っていなかったあの日の不安から毎日数年間鞄には必ずパンを入れていた。

パンは食べるわけでもなく、賞味期限が切れるまで数日カバンの中に入っているんだけど、食べる物を持っているという安心感があった。


数年間はずっと必ず鞄にパンを入れていたけど、食べ物を持っていなくても大丈夫。

と思えるようになって今は入れてない。


地震は私に少なからずストレスを与えていたんだなと思いました。


時が経ち、あの時の事が薄れていきそうになるけど、忘れてはいけない。


人は人に助けられていく。


助けてくれた方々に感謝する日だと改めて思いました。