自分の生涯を、書き残す、
という営みは、一体、何のためにあるか。

Facebookで、そういった類の質問を
いただいた。

最も多いのは、家族に遺したい、
というもの。

これは、分からなくは、ない。

しかし、自分の人生は、特殊なので、
社会のためになるので、出版の価値がある、
という意見も、思いのほか、多かった。

ちなみに私は、自分史、なんて、そんあ
おそろしいものをまとめたいなんて、
思わない。

「私」の「自分史」など、社会に役立つわけがないし、
第一、そんなものに関心を持つ人など、
まったくと言ってよいほど、いない。

では、人は、どこから「出版」の価値がある、
なんて思うのだろうか。

もしかすると、それは、芸能人の「告白本」とかに、
影響されているのではないだろうか。

間違っても、野口英世とかキュリー夫人とか、
そういう人たちと自分が肩を並べている、
なんて思う人は、さすがにいない。

しかし、アイドルとかタレントとか言われている人たちが、
書いている(もしくは語ったものをライターががまとめている)ものをみると、
この程度で1冊の本ができあがるのであれば、
そこらへんのサラリーマンや中小企業の社長である自分ににだって、
それなりの紆余曲折や、成功談、失敗談、人にはいえないようなこと、
おもしろいこと、など、エピソードくらいはいくらかはある、と思ってしまうのかもしれない。

また、一方で「自分史」を自費出版で出す人も多いと聞く。

そんな影響もあって、気軽に「出版」ができると思い、
しかも、うまくゆけば、ベストセラーにならないともかぎらない、
とも考えてしまうのだろうか。

人間とは、不思議な生き物である。

万馬券や、宝くじの1等が、当たる確率がきわめて低いにもかかわらず、
自分にだけは当たる、というおかしな「信仰」がある人が、少なからず、いるのと、同じ発想であろうか・・・。


さて、本題だが、そういう人たちにこそ、この本を読んでほしい。
告白 上 (岩波文庫 青 805-1)/アウグスティヌス
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何がすごいかというと、これほど恥ずかしい内容を書き、
後世に遺してしまったという事実が、すごい。

言ってみれば、ソクラテスの対極をゆく生き方である。

嘘をつき、色に耽り、物を盗み、宗教にはまり、親をウザがる、
こんな素行不良の人間が回心した、本当かよ~、という感じである。

だって、このお方は、あの、アウグスティヌスなのだ。

古代から中世にキリスト教がヨーロッパ世界に、
根づいてゆくうえでの、最重要人物である。

そんな人間が、こんなにあけっぴろげに、
過去の「罪」の数々を、「告白」する。

ルソーの「告白」も、かすむ。

この、純粋さ、こわいものなし。

いや、そうではないか。

むしろ、ソクラテスや、イエス、ブッダ、みな、「正直者」という意味では、
一緒なのかもしれない。

命がけで率直に語る勇気、パレーシアってやつだ。

ストア派のセネカは『怒りについて』『心の平静』書き、
マルクス=アウレリウスは、「自省録」を書いた。

しかし、この古代ギリシア時代に育まれた自己形成の技術は、
フーコーに言わせれば、キリスト教つまり、このアウグスティヌスを筆頭に、変容したと疑う。

神を愛するということと、自分の内面の事象を知るということが「告白」において結合したのだ。

「過ちを思い返し、誘惑をを認め、欲望をつきとめる」ことに、彼らは精魂を傾けてゆく。(フーコー『自己のテクノロジー』52ページ)
自己のテクノロジー―フーコー・セミナーの記録 (岩波現代文庫)/ミシェル フーコー
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フーコーからみると、この「告白」とは、最終的には、「自己の放棄」である。

「自己を放棄する」ために、「告白」をする。これは、たいへん、不思議な秘術である。少なくとも18世紀以降に流行した「自叙伝」「自伝」の類とは、まったく異なる。

イリイチが言うように、アウグスティヌスが、過度の自信は必ず失敗に終わると理解したうえで「告白」を書いているのに対して、「自叙伝」の作者たちにあるのはこの「過度の自信」である。(イリイチ『ABC』101ページ)
ABC―民衆の知性のアルファベット化 (岩波モダンクラシックス)/I.イリイチ
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つまり、一見すると、私たちにとっては、アウグスティヌスの「告白」は、芸能人の暴露本と似たような、内容であるように見えるかもしれないが、この「自己の放棄」という点において、両者はまったく異なる、ということになる。

では、何が異なるのか。私には宗教的な「信仰」というものがないので、正確には分からないが、対比的に考えてみると、どうやら、神からの「赦し」もしくは「救い」という考えを受けれられるかどうかにかかっているように思える。

宇宙や世界が、こうして「ある」ということ、そして、「自分」がこうして「ある」ということ、このことにおののき、うちふるえ、ひざまずくこと、そしてこの「自分」が「ある」ことをやめたあとにも、「ある」ことの全面的な肯定を解除しない、確かなもの、揺るぎないものを求める場合、そこにこの「自己の放棄」が意味をもつことは疑いない。

だがしかし、ついつい私は、「自分」「が「ある」ことをやめたあとには、世界も宇宙もそしてその創造主である「神」も、それらが「ある」こと、すべてが消える、と考える、究極の「独我論」を支持してしまうのだ。