紫陽花がきれいに咲いている季節になった。
毎年、大振りで優しい色合いの花を楽しみにしているけど、
もう次期、次々と茶色く枯れて行ってしまう。
花のいのちはみじかくて
苦しきことのみ多かりき
林芙美子が放浪記に綴ったと言われているけど、
放浪記のどこを見ても見つけられない。
浮き雲も調べてみたが、見つけられなかった。
色紙を手渡されると、
花のいのちは・・・って書いてたみたいだから、
座右の銘のようなものだったのかも知れない。
この出典に関して、1時間以上ネットで調べたけど、
何もわからなかった。
長女が幼稚園の頃だから だいぶ前の話になるが、
1・2年生の子供が男女あわせて5人くらい
近所の公園で遊んでいた。
おままごとをやっていた その子達は、
今が盛りの紫陽花をバラバラにしてバケツに入れていた。
「ねえ、そんな事したらダメだよ」
子供は大人の言うことを素直に聞くもんだと思っていた私は、
控えめに注意した。
確かに数人の子供は私の言葉に叱られたと感じ、
手を止めたんだ。
それなのに、一人の女の子は聞く。
「どうして?」
「お花が可哀相でしょ。
大きいお花は、近所の人みんなが楽しみにしてるんだからダメだよ」
「ええ?なんで?
いっぱいあるんだから良いじゃん」
ムカムカ…((o(-゛-;)
「いっぱいあっても大きいお花はやめてね。
公園の中のああいうお花で遊んだら?」
ペンペン草を指差す私。
「嫌だよ!紫陽花なんてうちの庭にいっぱいあるんだから、
何したって良いんだよ」
ここまで優しい口調だった私も、さすがにブチッと切れた。
「だったら、自分の家の紫陽花取って、
お母さんに怒られて来なさい!」
そして私、バケツの中の紫陽花を指差して、
「いい?!やめなさいよ!!」
子供達はバケツの紫陽花を公園に捨てて、
「鬼ごっこやろう!」
って散って行った。
それからというもの、紫陽花の季節になると、
短く折られた大きな花が
2・3個ゴロッと転がってるのを思い出す。
どこか残虐な、弱いものイジメのような・・・。
あの子達は今、心優しく育っているんだろうか?
放浪記から見つけた こんな一節。
二階から見ると、赤いカンナの花が隣の庭に咲いている。
昨夜、何かわけのわからない悲しさで、転々ところがりながら泣いた私の眼に、白い雲がとてもきれいだった。隣の庭のカンナの花を見ていると、昨夜の悲しみが又湧いて来て、カンナの花を見ていると、熱い涙が流れる。いまさら考えて見るけれど、生活らしいことも、恋人らしい好きなひとも、勉強らしい勉強も出来なかった自分のふがいなさが、凪の日の舟のように佗しくなってくる。こんどはとても好きな ひとが出来たら、眼をつぶってすぐ死んでしまいましょう。こんど、生活が楽になりかけたら、幸福がズルリと逃げないうちにすぐ死んでしまいましょう。
カンナの花の美しさは、瞬間だけの美しさだが、
ああうらやましいお身分だよだ。
またのよには、
こんな赤いカンナの花にでも生れかわって来ましょう。
コレを見つけて嬉しくなった。
なぜなら うちの長女かんは、かんなという名前だから。
林芙美子はカンナの花を褒めているわけじゃない。
辛いときに見た見頃のカンナはとても幸せそうに見えて
憎らしかったんだろう。
花は人の心を打つことが出来る。
優しい気持ちを起こさせてくれる。
和やかな気持ちを分けてくれる。
27才で作家となり、
後年結婚して大きな家に住んでいたという林芙美子は
一瞬でも美しく晴れやかでありたいという願いが叶い
カンナの花になれたんだろうか?
それともカンナになりたいと、もう願わなくなったんだろうか?
- 著者: 林 芙美子
- タイトル: 放浪記