赤石山頂。1892年8月19日、明治25年ウォルター・ウェストン赤石登山一行。私の祖先も写真家(東垣外)として同行しています。ウェストンが自分をモデルにした根付けは写真と同様の印籠、小島信太郎と交換
赤石山頂、明治25年8月19日
印籠と根付け
リーフレット
小渋湯跡(湯のうしろ)明治31年9月7日大水害で流失。小渋湯にいた全員行方不明。上蔵の実家にいた母、次男、長女の小島志ま、は生存
小渋湯(こしぶゆ)明治25年8月18日、日差しの角度から昼過ぎ?
広河原
大聖寺平手前のガレ場
暴風雨になり山頂東側の窪地。写真家、東垣外は生まれ故郷喬木の阿島を拠点として明治後期は写真技師、山本芳?の東京に移り晩年は横浜と聞く。赤石登山の写真は大正初期飯田の行商人に貸して数枚を紛失。行商人が信用できなかった為赤石山頂、小渋湯写真は渡さなかったらしい。明治25年、地方税営業税担当の村議小島泰三郎が写真家、写真師を依頼。前日から小渋湯に宿泊。鹿塩温泉は水害で休業、明治24年宿泊を大丸屋、今井滝次郎、五島勘平(小渋湯)に依頼。村長(上蔵)松下直雄。太平洋戦争で父とこの写真はビルマ(ミャンマー)に渡りました、皮肉な事に敵はイギリス軍、父の出兵はインパール全滅部隊でしたがマラリアになったため写真と共に帰国出来ました。大正、昭和初期の信用できない行商人、家が2度の火災。この写真は大切に!祖々祖父の言い伝えを守った父母のお陰でこの写真が今ここにある。




2024/04/17/赤石岳