おはようございます。

ブログへのご訪問ありがとうございます。
この素敵な出会いに感謝いたします。

これは、発達障害、ADHD、高機能自閉症、
後発難聴の私のエピソードです。


今朝のエピソードは、
祈りとは自分を変える勇気を得る為のもの。というお話です。
追記は文末に掲載しています。


(画像はお借りしています。)


私、ヘタレは、プロテスタント系の教会の日曜学校に通う子供でした。

これは、ある日、大人達と共に参加した礼拝で、

そこで、牧師先生が、何の為に祈るのか?そして、どの様に祈るか?のひとつの例として、お話をされていた事です。


「神よ、変えられるものを変える勇気を、変えられないものを受け入れる冷静さを、そして、両者を識別する知恵を与えたまえ」

これは、アメリカの神学者、ニーバーの祈りの言葉です。(ライホールド・ニーバー 1892〜1971)

変えられるものというのは自分の事です。
変えられないものというのは自分以外のものです。

私達は、自分の生まれもった造形などは基本的には変える事は出来ませんが、内面は変える事が出来ます。

自分の思考、言葉、行動、習慣は変える事が出来ます。

それにより、自分の性格が変わり、運命が変わります。

ですが、それ以外のもの、自分以外のもの、誰かや何かを変える事は出来ません。そして、それは、してはならない事です。

そして、その変えられないものに対して変えようと執着するよりも、変えられるもの、自分に意識を集中する事の方が大切です。

意識を集中する事により、それは、変えられないものだと受け入れる事が出来ます。
それにより、変えられないものに対する執着が消えます。

変えられるものは自分です。
それ以外は変えられないものです。
私達は、それを、冷静に識別する知恵を持つ事が必要になって来ます。

祈りとは、自分を変える勇気を得る為のものです。


そして、どの様に祈るのか?について、

「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。

怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。

希望を持って喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なるもの達の貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人を持てなすように努めなさい。

あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」

これは、新訳聖書のローマ信徒への手紙 12章9節から15節です。

どの様に祈るのか?
それは、祝福の言葉で祈る事です。
呪いの言葉で祈る事ではありません。

最初にお話した。ニーバーの祈りで、
「神よ、変えられるものを変える勇気を、変えられないものを受け入れる冷静さを、そして、両者を識別する知恵を与えたまえ」

変えられるものは自分。
変えられないものは自分以外のものである事を学びました。

なので、自分以外のものを変えようとする事、自分の思った通り何かをさせようとする事を願い、祈る事は、望ましくない事であり、相手が、それを望まないものであれば尚更です。

そして、愛を持たず、敬意を払わず、怒りや、恨みなどにより、相手の不幸を願い、祈る事は、呪いの言葉で祈るという事になります。

これは神様が望まれない事です。

神様の望まれる。祝福の言葉で祈るというのは、
たとえ何があっても、愛を持ち、敬意を払い、相手の幸せを願う事です。

そして、全てを神様に委ねる事です。

私達は、この様に祝福の言葉で祈る事が出来るように、自分を変える勇気を得る為に、

神様に、私を導いてくださいと祈るのです。

牧師先生は、この様に、語っていました。

(これは、何の為の祈るのか?どの様に祈るのかの、ひとつの例であり、この他にも様々な祈りが存在します。)

それを聞いていた私は、ふと、バー様が以前に教えてくれた「天に返す」話を思い出していました。
いいかい、バー様が今から、ヘタレに「天に返す」のやり方を教えるから、よーく、お聞き。

先ずは、何があっても、相手を恨まない事だ、呪わない事だ、

人を呪わば穴二つと言うだろう。
呪いは倍返しで返ってくるからね。

それが理由だ。

それでは、その気持ちをどうすればいいのか、

それは、相手の幸せを願い、愛と感謝を込めて、その気持ち事、一緒に天にお返しし、委ねるのさ、

相手に伝える場合には、あなたのした事はこういう事ですよという事実だけを伝えて、その場を離れるのだ。
それ以上の事はしなくていい。

後は、相手の幸せを願い、愛と感謝を込めて、天に返し委ねる。

そうすれば全ては相手に返る。天が返してくださる。

だから、相手の事を恨まなくても、呪わなくてもいいのさ、後の事は全て天に委ねればいい、

神様、仏様に全て任せておけばいい。

そして、天がどの様な判断をしたとしても、それが天の采配だからね。

間違っても、神様、仏様の決めた事に、天の采配に対して、文句をつけるんじゃないよ。

素直にそれを受け入れるのだ。いいな。

私はこの話を、礼拝を終えて、ゆっくりとお茶を飲んでくつろいでいる牧師先生に伝えてみたところ、

牧師先生は、笑顔で、

そうですね、
愛は呪いに勝ちますからね。

相手の幸せを願い、愛と感謝を込めて、それ事、神様にお返しする。それでいいのだと思います。

そして、後の事は、全て神様に委ねてしまえばいいのです。

全ては天の采配、良い言葉ですね。
そうそう、神様のお決めになった事に文句をつけてはいけませんよね。

大切な事は、神様の愛に、真理に近づく事、気づく事ですからね。

宗教の違いはあれど、ヘタレちゃんのおばあちゃんは、ちゃんと、その事に気づいているのですね。
それは、素晴らしい事です。
(バー様は仏教徒でした。)

私は牧師ですので、出来れば、キリスト教を信じて欲しいし、クリスチャンになって欲しいと思いますが、人を変えてはいけませんからね。

それにしても、ヘタレちゃんのおばあちゃんは実に、豪快で面白い方ですね。

と、言って、笑いました。

この様に、牧師先生はとてもおおらかな方でした。
これは、プロテスタント系という事もあったのでしょうが、他の宗教の話をしても、決して、否定するは事なく、全ての宗教は通ずるところがあるという広い視点で物事を捉えている方でした。

さて、大人になった私は、あえて何の宗教にも属していません。

宗教を哲学として捉えています。
宇宙の法則の話をする事がありますが、
これは、量子物理学を元にしたものです。

ですが、神様はいると信じています。
何かの宗教に属していなくても、祈りは届きますし、願いが叶う事を、そして、神様は、全ての人を地上の生きとし生けるものを愛していると信じています。

そして、人が生きていくにあたり、宗教は必要だと思っています。どの宗教を信じ、属するか、宗教を信じるも信じないも、その人の自由だと思っています。

それは、信教の自由は日本国憲法で保障されている国民の権利だからです。

なので、私は、この選択の自由のある平和な国に生まれてきて良かったと思います。日本が大好きです。

お付き合い頂きましてありがとうございます。
感謝致します。

今日も素敵な一日をお過ごしください。

おひいさま(ヘタレ)

追記しました。
アーメンとはヘブライ語で「まことに」「たしかに」「かくあれ」「そうありますように」の意味で使われます。

キリスト教における重要な礼拝用語であり、誓い、祝福、祈り、賛美などの終わりに同意を表す為に唱える言葉です。

さて、このアーメンは礼拝中などに、牧師先生が笑いを取るところや、感動するところなどで、「いいね」のノリで合いの手や拍手の様に、使われる事もあります。
(これは、教会によって行うとこと行わないところがあるようです。)

ですが、アーメンを言うタイミングの判断に迷う事もあり、

あれ?今の笑うところだったのですか?
さっきのアーメンだったのですか?
と、いう事もよくありました。

そんな時は牧師先生がじーっと、ここでアーメンと言ってくださいと言わんばかりに、熱い眼差しを送ってきますので、

みんなで慌ててアーメンと言っていました。

そして、ここだなとわかるところでも、
ちょっと早過ぎた。フライングなアーメンや、
タイミングがズレた。出遅れなアーメンなどがあり、見事にバラバラなアーメンになる事があります。

これは、これで、楽しく、笑いが起きるのですが、
みんなのアーメンが綺麗に揃うと、気持ちがよく、おおっっと盛り上がります。

この様に礼拝はアーメンによって、更に盛り上がります。
(礼拝の種類によっては厳粛なものもあります。)

さて、祈りの終わりのアーメンについて、
牧師先生から最後にアーメンと言ったら、これは、神様への誓いに同意した事になります。
神様と約束した事になりますと指導されていました。

なので、教会の中や、教会関係者の前、そして、人前でお祈りをしてアーメンをしたのに、

言っている事とやっている事が違うと、〇〇だとお祈りしていましたよね?アーメンって言いましたよね?とツッコミが入っていました。

これは、神様への誓いに同意し、約束したからには、守ろうよという事なのです。

言っている事とやっている事が違うどころか、同じ事を延々と繰り返しているようでは、それは神様との約束を守らないという事になります。

神様に対して嘘をついた事になります。

なので、お祈りをする時には、自分が出来そうな事、守れそうな事だけにしておく事、

たとえ、やらなくても守らなくても、嘘をついても、神様は許してくれるからいいやという、自分に甘い、無責任な考えで、祈る事のないようにと指導されていました。

ですが、中には、私は洗礼を受けて神の子になったクリスチャンだから、毎週、欠かさず教会に通い、聖書を学び、献金もしている。
特別な存在なのだから、何をしても神様に許されると、居直り、平気で嘘を繰り返す(主に大人の)クリスチャンがいましたが、
(キリスト教が、クリスチャンが誤解されるゆえんは、こういったクリスチャンがいるからなのでしょうね。)

牧師先生は、聖書を開き、物静かに、

聖書は偽りを、嘘を言う事を禁じています。
「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いと一緒に脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです」(新訳聖書 コロサイ信徒への手紙 3章9〜10節より引用)

偽りの言葉、嘘は、自分の内にある罪の性質が外に出たものであり、洗礼により、罪を洗い清め、神の子として、新しい命を与えられた。霊的な生まれ変わりをしたクリスチャンが嘘を言うのは、不自然であり、あってはならない事です。

それは、クリスチャンではなく、偽クリスチャンだという事になります。あなたが真のクリスチャンなのであれば、嘘はおやめなさい。神の子として、クリスチャンとして相応しい振る舞いをしなさい。
と、たしなめていました。

当時、子供だった私は、牧師先生に反省を促されているこの人って、クリスチャン以前に人としてどうなのだろうか?と疑念を抱き、牧師先生に質問した事があるのですか、

牧師先生の話によるとクリスチャンにも実に様々な人がいて、残念ながら中にはこういう人もいるとの事でした。

それを聞いた私は、牧師さんって大変なのだなと、子供心に思いました。

(勿論、こういった人は、ほんの一部ので、多くの人達はクリスチャンとしても人としても素晴らしい方達ばかりでした。)

この様に、牧師先生は熱心に人が人として生きていく為に大切な事を指導してくださっていました。

子供の頃に、日曜学校で過ごした日々は、私の中で、かけがえのない財産になっています。今でも感謝しています。

さて、大人になった私は、クリスチャンにはなりませんでした。
そして、あえて、何の宗教にも属していませんが、

出来るだけ、言っている事とやっている事が違わないように、同じ事を繰り返さなように心がけています。


昨日までの自分よりも、あと一歩だけ前に進んでいけるように、少しでも変化し、成長していけるように、日々精進していこうと思います。

人は、今、ここで生きています。
愛と感謝で今を生きていこうと思います。
今、目の前にあるこの幸せに感謝し、今、出来る事をやっていこうと思います。

お付き合い頂きましてありがとうございます。
感謝いたします。

おひいさま(ヘタレ)