森 鴎外「うたかたの記」現代語意訳版 022 | 鴎外作品(現代語訳)

森 鴎外「うたかたの記」現代語意訳版 022

「母が亡くなった後は、上の階に住んでいた裁縫師が世話をしてくれました。哀れな孤児(みなしご)を一人にしてはおけないと迎えられ、その時は喜びました。しかし、今思い出すと悔しいことです。裁縫師の二人の娘は、好奇心が強く、何かと自分を誇らしげに振る舞いました。迎えられてから様子を(うかが)っていると、夜によく来客がありました。酒を飲み、笑い、(ののし)り、そして歌を歌ったりしていました。客は外国からの人が多く、あなたの国の学生もいました。ある日、そこの主人が私にも新しい服を着ろと言いました。そのとき、私を見て笑っている主人の顔は、なんとなく恐ろしく、子ども心にも嬉しいとは思いませんでした。昼過ぎ頃、四十くらいの見知らぬ人が来て、スタンベルク湖へ一緒に行こうといい、裁縫師の主人もそれを勧めました。生前、父に伴われて行った嬉しさを忘れられず、しぶしぶ承諾すると、「ほんとにいい子だ。」と皆が誉めてくれました。行く途中、その男は優しくしてくれました。『バワリア』という船に乗り、レストランで食事をしました。そこでお酒をすすめられましたが、飲み慣れてもいなかったので、断りました。ゼエスハウプトに船で着いたとき、その人はまた小船を借り、これに乗って遊ぼうと言いました。暮れはじめた空に心細くなった私が、もう帰りましょうと言っても、聴かずに漕ぎ出し、岸辺沿いに進み、人気(ひとけ)のない(あし)の茂ったところに着いたとき、男は舟を停めました。私はまだ十三でしたから、初めは何事もわからず、男の顔色も変わりだして恐ろしく、私は湖に飛び込みました。

(しばら)くして、気がつくと湖の(ほとり)の漁師の家で、貧しげな夫婦に介抱されていました。私は、帰る家がありません、と言い張って、一日、二日と過ごすうちに漁師夫婦の純真で飾気(かざりけ)のない人柄(ひとがら)に馴染み、自分の身の上を打ち明けました。哀れに思った漁師夫婦は私を娘として育ててくれることになりました。ハンスルという名は、その漁師の名前です。」


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