森 鴎外「うたかたの記」現代語意訳版 020
少女は黙ってしまった。今朝からの曇り空は雨にかわり、時折窓を打つ雫の音が聞こえた。巨勢が話だした。「王は狂人となり、スタルンベルヒの湖の近く、ベルヒという城に遷されたと、昨日の新聞に載っていたが、その頃から兆候があったのだろうか。」
少女が言葉を継いだ。「国王は国の中心部から離れ、辺境の地に住み、昼間は寝て、夜起きるというのが習慣になっています。ドイツとフランスの戦いの時、カトリック派が国会で勝ち、プロシア方につき、王が年を取るにつれて、暴政の噂が広まり、陸軍大臣メルリンゲル、大蔵大臣リイデルなど、理由なく死刑にされたのは、誰もが知っていることです。王が昼寝をしているときは、誰もその場から退けられるのですがが、うわごとで「マリー」と何度も言うのを聞いた者がいるそうです。私の母はマリーといいます。望みのない恋は、王の心の病を更に悪化させたのかもしれません。母は私に似ています。その美しさは、宮廷内でも及ぶものがいなかったと聞きます。」