森 鴎外「うたかたの記」現代語意訳版 016
一週間ほど過ぎた。エキステルは美術学校のアトリエを用意し、巨勢はそれを借りることができた。南面に廊下があり、北面の壁にはガラスの大きな窓が半分を占め、隣の部屋とは木綿のカーテンで仕切られているだけであった。六月の半ばではあったが、旅行などに出かけている学生が多く、隣の部屋は空いていた。そのおかげで創作活動を邪魔されずにすむことを喜んだ。
巨勢はキャンバスの前に立つと、今入ってきたばかりの少女に「ローレライ」の画を指差して語り始めた。
「君に話した絵はこれです。君が楽しげに笑っているときは、それほど思わないのだが、時々示す君の面影が、この未完成の人物にイメージが一致するときがあるんだ。」
そういうと少女は高笑いをした。
「忘れてしまったのかしら。あなたの「ローレライ」のモデル、つまりすみれを売っていた少女は紛れもなく私なのよ。この前の夜もいったけど。」こういうと少女は、まじめな顔をした。「あなたは私のことを信じていないようね。それも無理はないわ。世の中の人が、私は気が狂っているといえば、そう思われてもしかたがないものね。」少女の声は戯れとは聞こえなかった。
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