森 鴎外「うたかたの記」現代語意訳版 013
少女のそばに座っていた一人は、
「俺にやけを起こさせる気か!」
と言うと右手を伸し少女の腰をかき抱いた。
「ほんとうに礼儀知らずね!あなたたちには、他のキスがお似合いよ!」
少女は怒りの声をあげると、その手を振り解き立ち上がった。その美しい目には稲妻が光り、じっと彼らを睨みつけていた。
巨勢は呆れて、ことの成り行きを見ていた。しかし、もうこの時の少女の姿は、あの花売りの少女ではなかった。ローレライでもなかった。さながら凱旋門の上に聳え立つ、あの女神バヴァリア像の勇姿そのものであった。
少女は、飲みかけのコーヒーの横にあったコップの水を口に含むと、その途端、まわりの学生たちに一気に水を噴かけた。
「あなたたちは芸術家ではないわ! フィレンツェ派はミケランジェロやダビンチの模倣だし、オランダ派はルーベンスやファン・ダイクの模倣。我が国のデューラーが模倣にならなかったのは稀なことよ。あなたたちの描いた稚拙な絵が二三つ売れたからと言って自惚れないでよ!そんな屑のような芸術にミネルバはくちづけなどしない!わたしの水のキスで十分よ!」と少女は叫んだ。
アルブレヒト・デューラー(Albrecht Durer):
バイエルン州の 第2都市ニュレンベルグに生まれた15世紀の有名な画家。
ミネルバ:
ローマ神話における知恵と工芸を司る女神