森 鴎外「うたかたの記」現代語意訳版 012
巨勢の発言に周りの学生たちは大きな声で笑った。
少女は立ち上がり、
「今わたしとあなたの間に、その花売りの少女が立っているのかしら。わたしを誰だと思う。」
真面目なのか戯れているのか解らない声で語りだした。
「私はそのときの少女よ。あの時のあなたの優しさには感謝しているわ。」
少女はテーブル越しに伸びあがり、俯いていた巨勢の顔を抑えると、その額にくちづけをした。
この騒ぎで、少女の前にあった酒はひっくり返り、服の裾を濡らし、テーブルでは、こぼれた酒が蛇のように這い、人々の前に流れ出していた。
巨勢が少女の熱い手のひらを両耳に感じた途端、熱い唇が額に触れた。
エキステルが
「俺の友人の目を回すな。」
と大声で言った。
まわりの学生は、半ば椅子から立ち上がり
「よくできた戯れだ。」
と一人が言えば、
「俺たちは、除け者か。」
と他の一人が笑いながら言っているのを、ほかのテーブルにいた学生たちも、興味ありげに、事の成り行きを見守っていた。