森 鴎外「うたかたの記」現代語意訳版 010
「自分はコーヒー代の白銅貨を帳場の石板の上に投げ捨てると、外套を取り、外に出た。花売りの少女は一人、涙をしきりに流し泣きながら歩いていた。呼んでもこちらを振り向こうともしなかった。追いついて「君は悪いことはしていない。スミレの花の代金を受け取りなさい」というのを聞いて、始めて仰ぎ見た。その顔の美しさ、濃い藍色の目には、底知れぬ憂いがあり、人知れぬ悲しみがあった。財布のなかの七、八マルクすべてを、からになった籠の葉の上においた。少女が驚いて何も言わないうちに、自分はその場を立ち去った。しかし、その顔、その瞳がいつまでも、自分の目に焼きついて消えなかった。
ドレスデンに行き、画堂に飾ってある絵を書き写す許しを得て、ビーナス、レダ、マドンナ、ヘレナ、などの絵に向かうと、不思議なことに、あの少女の顔が霧のように、自分と絵画の間に現れて、邪魔をするのであった。このままでは自分の絵の勉強が進まないので、ホテルの二階にこもり、長いすの革に穴があくのではないかと思えるほど長いあいだ何もせず座り続けた。だが、ある朝、自らを奮い起こして、持てる限りの力をこめて、この少女の姿を永遠の存在にしようと思い至った。しかし、自分が見た少女の瞳は、春の日に差してくる潮を眺める喜びの色などはなかった。また、夕暮れの雲を送る夢見心もあるはずがない。イタリアの古い遺跡の間に立たせて、あたりに一群の白鳩を飛ばせることのもふさわしいとは思えない。自分の中の空想は、この少女をラインの岸の巌の元に置き、手には一張のハープを把らせ、嗚咽するようなむせび泣きの声を奏でさせようと決めた。そして川の流れに、小さな舟を一隻浮かべて、自分が、かなたに向けて両手を高く挙げ、その顔には限りない愛を見せよう。舟のまわりにはいくつもの、「ニックセン」「ニュムフェン」などの形が波間からでてきてからかう。今日このミュンヘンにきて、しばらく美術学校のアトリエを借りるのも、荷物の中に、制作中の習作があり、これを先生や君たちに意見を述べてもらい、完成させたいという願いだけが目的である。」