森 鴎外「うたかたの記」現代語意訳版 009 | 鴎外作品(現代語訳)

森 鴎外「うたかたの記」現代語意訳版 009

「この二人の違いは、すぐにわかった。人を人とも思っていない憎たらしい 栗売(くりう) りの少年、そして優しく、愛らしいスミレ売りの少女。二人は (むら) がる人の間をかき分けて、店の 真中(まんなか)帳場(ちょうば) の前あたりまで来た頃、そこで休んでいた大学生らしき男が連れたイギリス系の大型犬が腹ばいでいたのだが、身を起こして、背をくぼめ、四足を伸ばし、栗箱に鼻を差し入れた。それを見た少年が払いのけようとすると、驚いた犬は、あとから来た少女に突き当たり、『きゃっあ!』と (おび) えて手に持っていた籠を落としてしまった。茎に 錫紙(すずかみ) を巻いた美しいすみれの花束は、きらきらと光りながら、まわりに散り落ちてきたのを、いい獲物だとばかりに、大型犬は、踏みにじっては、くわえて引きちぎったりした。ゆかは 暖炉(だんろ) の温もりで解けた、靴についてきた雪で濡れており、まわりの人々は、これを笑い、 (ののし) っている間に、あちこちに乱れ散った花びらは、すっかり泥土に混ざってしまった。栗売りの少年は、急いで逃げ去り、学生らしき男は、 欠伸(あくび) をしながら犬を (しか) り、少女は、ただ 呆然(ぼうぜん) としていた。このスミレ売りの少女は耐えて泣かなかったのは、悩みの多いこの世の中に慣れてしまい涙の泉も ()() きたのか、あるいは驚きのあまりに、今日一日の手取りのお金は、このためになくなってしまうとまでは、考えが思い至らないのであろうか。しばらくすると、少女は砕け残った花束二、三つを力なげに (ひろ) おうとしたとき、帳場にいた女の知らせで、店の主人がでてきた。顔は赤みがかり、腹がつきでた男で、白い前掛けをしていた。主人は太い (こぶし) を腰にあてて、花売りの少女を (しばら)(にら) みつけると、『うちの店で、そんな粗悪品を客に売りつけるな!とっと出て行け!』と大声をあげた。少女がただ言葉もなく出ていくのを、店にいた客たちは、 一滴(ひとしずく) の涙も見せずに見送ったのだ。」


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原文にでてきたことば「 暖簾師(のれんし) 」:
粗悪なものをうりつける悪い商人