森 鴎外「うたかたの記」現代語意訳版 008
「自分も片隅にあった長椅子に腰掛けた。賑やかな方をちらっと見てみると、汚い身なりをした十五歳程のイタリア栗を売りに来た少年が、焼き栗を入れた紙包みを堆く積んだ箱を脇にかかえて「栗はいりませんか!」と勇ましい声を出していた。あとに続いてきたのは十二、三歳程の少女だった。古びた頭巾をふかくかぶり、凍えて赤くなった両手で、浅い籠の縁を持っていた。その籠には、常緑樹の葉を敷き重ね、その上に季節はずれのすみれの束を可愛らしく結んで載せていた。うなだれた頭をもたげ、「すみれはいりませんか」とその声の清らかさを今も忘れられない。あの少年と少女が一緒に連れ立って物売りをしているようには見えなかった。多分、少年が店にはいるのを見計らって、少女は入ってきたのだと思う。」