扇谷上杉の野望-山内上杉憲政


山内上杉家・当主。

以前、コメント欄でも書きましたが 、1547年に山内上杉家滅亡の際には、どうしても扇谷上杉家の家臣団に加わることを潔しとしなかった憲政殿。


その後、消息が途絶えるものの、しばらくして、なぜか蘆名家に仕えていることが判明。

1552年に扇谷上杉家が蘆名家を滅ぼした際、晴れて(?)家臣団に加わりました。


大名の状態で家臣団に加われば宿世の身分を保障されたものを、ごねたが為に足軽頭デビューとなってしまい、何とも要領の悪いお方です。


さて、扇谷上杉家家臣団の一員となったものの、鉄砲の音を聞いただけで頭痛を起こしたという逸話のある憲政殿。

とても天下統一軍に加えるわけにはいきません。


それならば・・・と城下町の開発に従事せてみたものの、開発奉行から

「憲政殿を作業から外してくだされ・・・」

と苦情が出る始末。


嗚呼、彼は生粋のお坊ちゃまなのでしょう。


結局、主君・扇谷上杉朝定の計らいで、馴染みの箕輪城の城主に据えることにしました。

ただこれだけ破格の厚待遇を受けながらも、憲政殿としては、

「じぃはどこじゃ?」

と、長野業正がお側にいないのが不満そうでした。


しかし、なんといっても業正殿は、我が扇谷上杉家にとって、前線の大黒柱。

いくら元・主従関係といえど、業正殿の身柄はどうしても引き渡すわけにはいきませんでした。