山頭火の略歴をおさらい | 安 明高 の 生 活

安 明高 の 生 活

日頃の気になること と
坂村真民・種田山頭火さんなどの作品を掲載してます

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弘法大師・法然上人・親鸞聖人などの魅力を紹介してます。

【南無大師遍照金剛】 * 7

1882年(明治15年)

山口県佐波郡(現・防府市)で誕生しました。

 

山頭火が10歳の時

「母親」は

「父親」の度が過ぎるほどの芸者遊び等を苦にして

自宅の井戸に投身自殺

 

その後の山頭火(正一少年)は

祖母ツルの手によって育てられたのです。

 

少年時代の楽しい思い出はこの出来事で

完全に中断

母の自殺が放浪者としての山頭火を決定づける基因となる

 

周陽学舎を首席で卒業する程の(正一少年)は

14歳の頃より学友らと文芸同人雑誌を発行

早稲田大学大隈講堂

早稲田大学を神経衰弱で中途退学した山頭火は

病状が回復せず

22歳の7月に実家へ帰郷

 

27歳には地元の佐藤サキノさんと結婚

29歳には防府の文芸誌『青年』に

   「田螺公」という旧号で定形俳句を

   「山頭火」の号で外国文学の翻訳などを発表

32歳には『層雲』に

   「山頭火」の俳号で自由律の投稿句が掲載され

34歳には『層雲』にて頭角を現し、俳句選者の一人となり

   父親経営の種田酒造は破産に追い込まれ

   山頭火は友人を頼って妻子と共に熊本へ

 

   熊本での生活では

   常に空虚感や欠落感が付き纏い

   弟二郎の自殺が山頭火をより一層酒に向かわせることに

37歳には 妻子を熊本に残したまま単身上京。

38歳には離婚

41歳には関東大震災に被災後

   熊本の元妻に戻りましたが

   酒酔で路面電車走路妨害をして「報恩禅寺」に預けられ寺男に

42歳には得度して「耕畝」と改名の後

   熊本市内の「味取観音堂」の堂守になりましたが

   度々の泥酔に眉をひそめるいる程に

瑞泉寺-2

43歳には辛抱溜まらず雲水姿で西日本を中心に旅し句作を行い

   旅先から『層雲』に投稿を続けた。

 

時はすでに大正15年 

これより先は「山頭火」生涯の記録としての

「行乞記」を明日から掲載します。

 

(青空文庫作成ファイル)より

 

(続きます)

*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆  

 

今日も命を授けていただきありがとう (^-^)

二度とない人生

だから 今日が大事、今日が大切 

今日もいい日でありますように 【合掌】

 

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