小早川秀秋らの動向は早くから | 安 明高 の 生 活

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【南無大師遍照金剛】 * 7

三成の戦略としては、

家康不在の間に畿内周辺を制圧するはずでした。

しかし上杉勢が背後から家康を衝く「挟撃案」は、

そもそも上杉の背後に

 

伊達政宗や最上義光がいたことを考えると

あまり現実的とは思えません。

 

もっとも三成は、

伊達と最上の人質を確保している以上、

自分たちに味方するハズだと

真田昌幸宛の書状に書き記しています。

 

しかしその計算は狂い、

もはや西美濃で両軍が激突することは不可避でした。

 

秀吉恩顧の将たちですら言い訳をしつつ家康に味方し、

想定以上に苦しい戦況に持ち込まれた三成。

 

彼にとって

最大の敵は、家康よりも

いつ裏切るともわからない味方かもしれません。

 

増田長盛、小早川秀秋らの動向が

あやしいということは事前に把握していました。

 

秀秋は陣地でも最も重要な松尾山に無断で着陣。

 

優柔不断な秀秋が家康に射撃されたことで

翻意したというよりも、

むしろ裏切りを前提として

最善の行動を取っていたのでしょう。

小早川秀秋

大老の一人として

総大将を務める毛利輝元に至っては、

大坂城から出ようとはしません。

 

両軍は関ヶ原に陣取りました。

長い乱世において

最大規模の軍勢を指揮しているにも関わらず、

三成が信じられる者はごく一部。

 

嶋左近清興
大谷吉継
宇喜多秀家
小西行長
島津義弘(ただし微妙な立場)

 

彼らは勇敢で誠実でした。

しかし、余りに少なかったのです。 

日本初の歴史戦国ポータルサイト・武将ジャパンより)

 

(続きます)

 

*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆

 

今日も命を授けていただきありがとう (^-^)

二度とない人生

だから 今日が大事、今日が大切 

明日もいい日でありますように 【合掌】

 

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