家康と仲が良かった石田三成ー6 | 安 明高 の 生 活

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【南無大師遍照金剛】 * 7

歴史家・作家 加来耕三 さんの

「歴史の英雄に学ぶ成功と失敗の本質」

安 明高(大先達)のお遍路便り-12-15
(大原観音寺・石田三成 水汲みの井戸)
 
「三成のような家臣が欲しい」(家康)

 豊臣政権下の、

石田三成の手腕を一番評価したのは、

意外にも敵の徳川家康でした。「

三成のような家臣が欲しい」とまで言っています。

 

 そもそも五大老・五奉行の中で、

実は三成と家康は一番仲が良かったのです。

 

秀吉が亡くなったら次を狙ってくるのは家康だ、

と誰もが思い、

家康は政権内で嫌われていました。

 

三成もその性格が嫌われており、

嫌われ者同士、

お互いの力を認め合っていたので、

仲が良かったのです。

 

 家康は、

秀吉が死んだことを誰から聞いたかというと、

三成からでした。

 

そのとき、

「これからも豊臣家のために共に頑張りましょう」と

言っています。

ところが家康が、

秀吉の遺言を破って

無断で諸大名と婚姻関係を結ぶなど暴走し始めたために、

三成は対決へと向かっていくのでした。

 

 明治時代初期、

兵学教官として日本に赴任したドイツの参謀将校メッケルは、

関ケ原の合戦の布陣をひと目見た瞬間、

「これは西軍が勝っただろう」と言ったといいます。

 

「いえ、東軍が勝ったのです」と言っても、

メッケルは納得しなかった。

「あり得ない、この布陣でなぜ西軍が負けるのだ」と。

 

 そのとき、

帝国陸軍の児玉源太郎が

「いや、裏切り者がいたのですよ」と説明して、

ようやく

「それならしょうがない。

そうでなければ西軍が負けるはずがない」と、

ようやく納得したそうです。

 

布陣だけ見ると、

西軍の陣の配置は完璧でした。

 三成は、

合戦のさなかに西軍として参戦していながら

裏切ることになる小早川秀秋の陣に、

2回も自ら足を運んでいます。

「狼煙(のろし)を上げたら家康の陣に突っ込んでくれ」と

頭を下げて頼みに行っているのです。

 

 三成の本当の性格=誠実さが

よく出ているエピソードだと思います。

実際、小早川が突っ込んでいったら、

西軍は間違いなく勝っていたでしょう。

 

 ー 7に続きます ー  

*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆

 

今日も命を授けていただきありがとう (^-^)

二度とない人生

だから 今日が大事、今日が大切 

明日もいい日でありますように 【合掌】

 

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