歴史家・作家 加来耕三 さんの
「歴史の英雄に学ぶ成功と失敗の本質」
![安 明高(大先達)のお遍路便り-12-15](https://stat.ameba.jp/user_images/20130522/17/ohenro-nikki/b1/ff/j/t02200165_0640048012548330709.jpg?caw=800)
豊臣政権下の、
石田三成の手腕を一番評価したのは、
意外にも敵の徳川家康でした。「
三成のような家臣が欲しい」とまで言っています。
そもそも五大老・五奉行の中で、
実は三成と家康は一番仲が良かったのです。
秀吉が亡くなったら次を狙ってくるのは家康だ、
と誰もが思い、
家康は政権内で嫌われていました。
三成もその性格が嫌われており、
嫌われ者同士、
お互いの力を認め合っていたので、
仲が良かったのです。
家康は、
秀吉が死んだことを誰から聞いたかというと、
三成からでした。
そのとき、
「これからも豊臣家のために共に頑張りましょう」と
言っています。
ところが家康が、
秀吉の遺言を破って
無断で諸大名と婚姻関係を結ぶなど暴走し始めたために、
三成は対決へと向かっていくのでした。
明治時代初期、
兵学教官として日本に赴任したドイツの参謀将校メッケルは、
関ケ原の合戦の布陣をひと目見た瞬間、
「これは西軍が勝っただろう」と言ったといいます。
「いえ、東軍が勝ったのです」と言っても、
メッケルは納得しなかった。
「あり得ない、この布陣でなぜ西軍が負けるのだ」と。
そのとき、
帝国陸軍の児玉源太郎が
「いや、裏切り者がいたのですよ」と説明して、
ようやく
「それならしょうがない。
そうでなければ西軍が負けるはずがない」と、
ようやく納得したそうです。
布陣だけ見ると、
西軍の陣の配置は完璧でした。
三成は、
合戦のさなかに西軍として参戦していながら
裏切ることになる小早川秀秋の陣に、
2回も自ら足を運んでいます。
「狼煙(のろし)を上げたら家康の陣に突っ込んでくれ」と
頭を下げて頼みに行っているのです。
三成の本当の性格=誠実さが
よく出ているエピソードだと思います。
実際、小早川が突っ込んでいったら、
西軍は間違いなく勝っていたでしょう。
ー 7に続きます ー
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今日も命を授けていただきありがとう (^-^)
二度とない人生
だから 今日が大事、今日が大切
明日もいい日でありますように 【合掌】
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