三成の子孫たちー2 | 安 明高 の 生 活

安 明高 の 生 活

日頃の気になること と
坂村真民・種田山頭火さんなどの作品を掲載してます

御先祖の御加護に感謝をし
日本百観音などを参拝の後
お四国を錦札で巡拝できる喜びを感じて
弘法大師・法然上人・親鸞聖人などの魅力を紹介してます。

【南無大師遍照金剛】 * 7

今日は三男と三人の女子を

 

三男佐吉


関ヶ原合戦時、

三成は居城の佐和山城の留守を、

兄の正澄と

父の正継に託し、

三男佐吉も一緒でした。

 

関ヶ原敗北後、佐和山城は東軍の攻撃を受けます。

石田軍は善戦するものの、多勢に無勢。

正澄は自分の命と引き換えに城兵の命を救うよう求め、

正澄の臣・津田清幽が交渉して、

家康の了解を得ました。

 

津田は家康の元家臣です。

ところが開城準備中に突然、約束を破って

田中吉政、小早川秀秋軍が城内に乱入、

正継は「内府も念を入れることよ」とひと言もらし、

正澄らとともに切腹しました。

 

これに怒った津田は、家康に対し、

生き残った三成3男佐吉の助命を承知させます。

佐吉は高野山で出家し、

僧として生きました。

長女(1579~1647)

三成の家臣の子、山田勝重に嫁ぎます。

勝重は徳川家康の側室・茶阿局の甥で、

石田家没落後、

勝重は茶阿局が生んだ

家康6男の松平忠輝に仕えますが、

ほどなく主家はお取り潰しに。

その後は三成3女辰姫の縁で、

津軽家の扶持を受け、子孫は弘前藩士となりました。

次女

蒲生家家臣の岡半兵衛重政に嫁ぎます。

孫娘は徳川3代将軍

家光の最初の側室・お振の方となり、

お振が生んだ千代姫は、

御三家の尾張、

徳川家2代藩主光友の正室となりました。

 

三女辰姫(1592~1623)

豊臣秀吉の死後、慶長3年(1598)頃に

北政所の養女となります。

次兄重成と同様、津軽家に赴き、

のちに2代藩主信枚の室になりました。

「先々を考えると三成は負けた方がええ。

だけど、

三成の血は残した方がええ」と語るのです。

この女の子こそ、

北政所が養女にした三成の三女辰姫でした。

 

以上、三成の3男3女は

いずれも父親の処刑に連座することなく、

生きながらえました。

出家した者にまでは敵方も危害を加えなかったと

いうことでしょうが、

特筆すべきは津軽家で、

三成の子どもたちを、危険を承知で匿っています。

明日はその経緯を見てみたいと思います。

(歴史コンテンツプロデューサー 辻 明人さんの記事)

 

(続きます)

  

*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆

 

今日も命を授けていただきありがとう (^-^)

二度とない人生

だから 今日が大事、今日が大切 

明日もいい日でありますように 【合掌】

 

日本ブログ村に参加しています
こちらのバナーをクリックすると

大勢の方のお遍路ブログが覗けます 

お寺好きの方 ぜひクリックしてね。

  ダウン     ダウン               ダウン

 にほんブログ村 旅行ブログ 遍路(・巡礼)へ  にほんブログ村 ポエムブログ 詩集へ ブログランキング・にほんブログ村へ

クリック有難う御座いました