秀吉死後 の 家康 と 光成 ー3 | 安 明高 の 生 活

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【南無大師遍照金剛】 * 7

『徳川実紀』には

家康は七将に使者を派遣し

「三成の旧悪は言うまでもないが、

三成は既にお前たちの猛威に恐れて、

伏見にまで逃れて来ている。

それで、各々の宿意も達したと思われるので、

ここまでにしてはどうか。

穏便の処置こそ、望ましい」と説得したとあります。

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秀吉死後は、

毛利輝元と四奉行

(石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以)を

中心とするグループなどが形成され、

家康を牽制する動きがあったとされます。

この騒動は、毛利輝元を中心とするグループと、

家康を中心とするグループとの対立が

露わになったものとも解釈できるでしょう。

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家康は今回の騒動を利用して、

三成を中央政界から追放したと見ることもできます。

 

ちなみに、

三成を佐和山まで護送したのは、

家康次男・結城秀康でした。

三成は秀康の労を感謝し、正宗の名刀を秀康に贈ります。

この刀は「石田正宗」と称され、

現在は東京国立博物館に所蔵されています。

 

騒動を解決した家康は、

閏3月13日、宇治川対岸にある伏見向島の屋敷から、

伏見城西丸に入ることになります。

 

これを聞いた奈良・興福寺の多聞院英俊は

「天下殿になられ候」と

『多聞院日記』に家康のことを記しました。

関ヶ原合戦の前年ですが、

家康を天下人と見做す認識は既に存在したのです。

 

   (続きます )

*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆

 

今日も命を授けていただきありがとう (^-^)

二度とない人生

だから 今日が大事、今日が大切 

明日もいい日でありますように 【合掌】

 

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