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オーちゃんのミャンマー滞在記

ミャンマーでの出来事を綴っていきます。

3月10日(水) 

 朝8時待ち合わせで、彼女と彼女の母とシュエダゴォン・パヤーに向かった。ここは「ミャンマー最大の聖地」であり、「強烈すぎるほど人を引き寄せる力を」持つ場所だということだ。
 
 この場所は2500年以上前に仏陀と出会った商人が8本の聖髪をもらい、奉納したのが始まりだという。高さ100メートルの黄金の仏塔(パコダ)の周りに、約60の塔が散在している。
 
 歴史を感じる場所ではあるものの、エレベーターやエスカレーターが設置されていることに驚いた。実際にエレベーターで上まで行くと、パコダの前で多くの老若男女がお祈りをしていた。たいがいの人が頭を床につけるまで下げ、熱心に祈りを捧げている。私はかたち上は仏教徒ではあるが、祈りを捧げるのは祖父の仏壇に年に数回あるかないか。仏陀に祈る人々を見て信仰心の差異を感じずにはいられなかった。
 
 さて、ミャンマーには「八曜日」という概念があるという。表を使って計算をするのだが、私の曜日は「月曜日」で象徴となる動物は「トラ」ということであった。その曜日の祭壇で、象徴となる像に年齢プラス一回分の水をかけると良いとのことであった。実際「トラ」の像に24回水をかけたが、10回くらいで飽きてしまう私はきっと不信心者だということがばれたに違いない。
 
 さらに進み、仏陀の24の教えを絵にした壁の前では彼女の母が一つひとつその意味を教えてくれた。特に一つ心に残ったのが、「二つの木」の話である。それは第6感の重要性を示しているものであった。一つの木は根が浅く枯れてしまっている一方、もう一つの木は多くの葉をまとっていた。これは「根」の深さの差であり、それは人間の「心」の部分のことだという。目には見えない部分を充実させることで、成果が変わってくるということであった。確かにミャンマーの人は見た目を着飾るというよりは、内面の充実に力を向けているように思う。
 
 最後にお土産を彼女の母に買ってもらった。それは「Pyit deing taung」という日本でいうダルマのようなものであった。「最後まで諦めずに何度もトライすることが大切だ」ということを伝えようとしてくれたが、実際に投げて見せてくれた時に凹凸の関係で起きあがらなかったのは見てみないふりをした。
 
 その後ヤンゴンで有名だという食堂に連れて行ってもらった。「Nga Yant U」という魚の内臓と卵の料理や、骨まで食べることのできる「Nga tha loud」という魚のスチーム料理、「セッターヒン」に近いマトンの内臓の料理を食べさせてもらった。どれも少しピリ辛ではあるが、暑い気候の中でとてもご飯が進むものであった。
 
 彼女の母と別れ、彼女と二人で「SKY BISTRO」というヤンゴンを一望できる高級レストランに行った。高級といっても日本円で約300円でコーヒーが飲めるので経済的だ。実際にレストランから見るパコダや町並みは最高であった。東京タワーから見る町並みも好きだが、パコダを上から見下ろす異国的な良さを味合うことができた。
 
 今日はこれから家族とショッピングに行ってくる。明日には彼女の父と弟が旅行から帰ってくるということなので会ってくる。
 こんにちは。お久しぶりです。現在私はミャンマーのヤンゴンに滞在しています。ここでの活動を日記形式でブログにアップしていきたいと思います。

 卒業間近で長期の旅行をするのも最後であろうから、日記という目に見える思い出作りの要素が強くなっています。日記であるので気のままに綴っていこうと思います。

 ミャンマーには3月9日から24日の約2週間滞在します。実は今付き合っている人がミャンマーの人であり、彼女の家族がミャンマーを案内してくれる話になっています。その様子も踏まえて書いていきたいと思います。




ミャンマー到着
3月9日(火)

 「私の国にようこそ」彼女のこの言葉で、ミャンマーに着いたという実感が沸いた。時間は夜の7時近くになろうとしていた。夕日が沈みかけている様を飛行機の中から見ていた。
 
 外に出ると蒸し暑さとマンゴーの匂いのする空気を感じることができた。そうそれは、昨年8月に行ったインドの気候にとても似通っていた。

 空港では、彼女の母と姉、そして祖母達が迎えてくれた。拙い英語での挨拶を終えてタクシーに乗り込む。まだ日本語の気分が抜けきっていない私は、英語でのコミュニケーションを上手く取ることができない。タクシー内で彼女の母・姉に色々と訪ねられるものの、答えがしどろもどろだ。彼女のフォローに助けられ、何とか家に着くことができた。

 短い時間ではあるが、前回行ったインドとの大きな雰囲気の違いを感じた。インドでは物を売りつけようと躍起になる人、無理矢理タクシーに乗せようとする人、そして交通量の多さもあり、とにかく「雑多」な雰囲気を感じていた。一方でミャンマーでは街を歩いていても声をかけてくる人はいず、道路と面したカフェでお茶を飲む人からは緩やかさと優しさを感じることができた。直感的だがミャンマーは自分の性格に合っている。そう思った。

 彼女の母、姉と共にレストランへ向かった。そこではミャンマー語で「ジェイオウ」という中華風の料理を食べた。学校の給食で出たピラフをもっと長くした麺と共に、豚肉とその内臓、豆腐などと一緒に食べるものである。給食のピラフは苦手であったが、お腹の減り具合もあり美味しく食べることができた。

 その後近くのスーパーを見学し、ホテルに着いた。彼女たちと別れてミャンマー一泊目の夜を過ごす。
 明日はミャンマー最大の聖地と言われる「シュエダゴォン・パヤー」に朝8時から行くことになっている。来てそうそう最大のスポットを見てしまっていいのかという気持ちもあるが、楽しんで来ようと思う。
最近感動した動画。

フジヤマのトビウオ古橋広之進さん、ヘルシンキオリンピックでのラジオ放送。


昔のスポーツ選手は日本を背負う感覚が今以上に強かったんだなと思った。

《以下wikipediaより》
日本大学進学後に水泳を再開。この頃の想い出として古橋は「国民体育大会に出場するために東京から兵庫県の宝塚市へ向かう途中で「汽車賃がないので、列車に無賃乗車して乗り継いでやっとのことで宝塚に行った」ことを語っていた[2]。

1947年の日本選手権では400m自由形を4分38秒4で優勝し、公式記録にはならなかったものの当時の世界記録を上回るタイムを出した。

敗戦国の日本は1948年のロンドンオリンピックへの参加が認められなかった。日本水連は日本選手権をロンドン五輪の水泳競技決勝と同日に開催し、古橋は400m自由形4分33秒4、1500m自由形で18分37秒0を出し、ロンドン五輪金メダリストの記録および当時の世界記録を上回った。同年9月の学生選手権の400m自由形では自己記録を更新する4分33秒0、800m自由形では9分41秒0を出しこれも世界記録を越えた。これらの記録は日本が国際水泳連盟から除名されていたため世界記録としては公認されなかった。敗戦直後で日本人の多くが苦しんでいる時期に、世界記録を連発する古橋は国民的ヒーローであった。

1949年6月に日本の国際水泳連盟復帰が認められ古橋や橋爪四郎ら6選手は8月にロサンゼルスで行われた全米選手権に招待されて参加し、400m自由形4分33秒3、800m自由形9分33秒5、1500m自由形18分19秒0で世界新記録を樹立しアメリカの新聞では「フジヤマのトビウオ」(The Flying Fish of Fujiyama)と呼ばれた[1]。この遠征はサンフランシスコ講和条約締結前だったこともあったこと、米ドルがなかったため日本水連幹部や在米日系人からの寄付で実現できた[1]。渡航前にはGHQのダグラス・マッカーサー元帥や昭和天皇からも励ましを受けた[1]。戦後まもなかったこともあり大会前は米国民にジャップと呼ばれることもあったが大会後は一躍ヒーローとなりハリウッドではボブ・ホープらにサインをねだられた[1]。

1951年に日本大学を卒業後、大同毛織に入社。幾多もの大企業や役所などから特別待遇での誘いを受けながら逢えて社業との両立を目的に同社に入社したという。同年、第1回日本スポーツ賞受賞。1952年、日本選手権では思うような記録が出なかったがその年のヘルシンキオリンピックに出場。しかし既に選手としてのピークを過ぎていたことと1950年の南米遠征中にアメーバ赤痢に罹患し発症していた[3]ことが響き、五輪本番では400m自由形8位に終わった。この時、実況を担当したNHKの飯田次男アナウンサーが涙声で「日本の皆さん、どうか古橋を責めないでやって下さい。古橋の活躍なくして戦後の日本の発展は有り得なかったのであります。古橋に有難うを言ってあげて下さい」と述べたことがあった。帰国中の船内では自殺まで考えていたという。