スラム論と板橋区その1 あまりに不幸な上宿に涙する | C.I.L.

スラム論と板橋区その1 あまりに不幸な上宿に涙する

タイトルだけだとなんだか重苦しそうなテーマにも思えるが、先日紹介した小板橋二郎著 「ふるさとは貧民窟(スラム)なりき」 を再び取り上げ、「スラムとはなんぞや?」 という事について語ってみる。

■参考リンク
・先日アップした記事


さて、一口にスラムと言うと、即座に頭に浮かぶのが "同和問題" ではなかろうか?あれは何も知らない人間からすると 「特定の地域に貧民が集まっている」 というだけの問題に思えるはず。それと "在日特定アジア人問題" とを併せて、現代の "スラム感" や "スラム的なイメージ" が形成されているように思う。

しかし今日本で最もヤバイとされている、例えばあいりん地区や山谷等と、小板橋氏が描いている板橋区にあった岩の坂(現在の板橋本町周辺、旧下板橋宿の上宿) のスラムというのは、果たして同じ物なんだろうか?

・なぜスラムになってしまうのか?
・スラムになってしまった街はその後どうなるのか?
・スラムって本当にそこまで恐ろしい土地なのか?

そんな素朴な疑問が頭に浮かんだため、オレなりにあれこれと無い知恵を絞って考えてみた。恐らく無駄に長くなると思われるので、今回はまず簡単に地理と歴史を説明しておく。




小板橋氏が生まれた岩の坂とは、この地図の中央辺りにある "板橋本町駅" または "本町" という地名が載っている場所にあたる。(ちなみにこの地図は板橋本用 に作った物)

この岩の坂という土地の歴史についてだが、板橋にはその昔 "下板橋宿" と "上板橋村" という2つの大きな宿場町があった。岩の坂はその内の "下板橋宿" という、日本橋から数えて中山道第一の宿場町の最北端にあたる、上宿と呼ばれていた地域にあった土地だ。(ちなみに現在の仲宿は中宿、不動通り~JR板橋駅一帯が平尾宿という地名だった)

この上宿には榎と槻が一緒に生えている場所があり、「縁(榎)が尽きる(槻)」 とされ、いつしか "縁切り榎" と呼ばれるようになる。また現在でも旧中山道沿いの縁切り榎がある辺りは坂になっているんだが、その一帯が "岩の坂" と呼ばれており、縁切り榎と併せて 「縁(榎)の 尽き(槻)る いやな坂(岩の坂)」 などと呼ばれていたそうだ。江戸時代頃の地図にはすでに "岩ノ坂" という地名が書かれているのだが、これがいつ頃つけられた地名なのかは不明である。

この縁切り榎は男女の縁を切ってくれるとして、夫と離縁したい女性などは榎の皮を削り、毎日お茶に混ぜて男に飲ませるといったまじないをしていたという。こうした謂れから、徳川家慶に嫁いだ楽宮や、徳川家茂に嫁いだ和宮の嫁入りの際は、中山道を縁切り榎の手前で大きく迂回して、上宿を飛ばして中宿に入ったのだそうだ。

こういう何とも微妙な昔話が残っているからイメージが悪くなるのかもしれないが、上宿の岩の坂という土地はそもそも旧中山道沿いにあって、れっきとした宿場町の一部であり、昔からスラムだの貧民窟だのといった "そういう場所" だったわけではない。

この上宿から宿場町としての姿が消えるキッカケになったのは、明治17年に起きた "板橋の大火" であると思われる。この大規模火災で、現在の "板橋本町~仲宿~不動通り" にかけた下板橋宿の中心地の殆どが焼けてしてしまう。そして復興の際に、上宿にあった旅籠や遊郭の大多数が (より日本橋に近い) 平尾宿に移ってしまい、下板橋宿の中でも特に寂しい土地になってしまったのである。

上宿の不幸はそれだけに止まらず、続く "板橋宿全体が鉄道時代に乗り遅れる" という一大事に際して、最も深刻な被害を受けてしまった。この辺の詳しい経緯は板橋本 に書いたのでそれを読んで欲しい…と軽く宣伝に繋げてみるが、早い話が板橋宿に鉄道駅を作るという計画を持ちかけられた際に、宿場町の人間達が 「由緒ある板橋宿に鉄道を通す事など許さん!」 と跳ね除けてしまったのだ。

そのお陰で板橋は 「満足に鉄道も通ってない土地」 として時代に取り残され、板橋宿全体の人通りがめっきり減ってしまったのである。これによって宿場町としての栄光は過去の話となり、現在の "地味で誰にも知られていない可哀想な区" というポジションに収まる事となった。

さすが板橋区。なんて憐れな誕生(?)秘話なんだろう。


それはともかく、そうは言っても中宿や平尾宿は、後に板橋宿の中心部から遠く離れた場所(処刑場があった辺り) に出来た板橋駅から比較的近い距離にあったため、街としてそれなりの賑わいを残す事が出来た。

だがあまりに救いがなかったのは上宿である。

<旧下板橋宿の板橋駅からの距離>
・平尾宿=徒歩5~15分
・中宿=徒歩15分~25分
・上宿=徒歩25分~30分以上

板橋駅が下板橋宿の最南端、それも 「本当にここを下板橋宿と呼んでいいのか?」 という疑問が頭に浮かぶくらい南の外れに出来てしまったため、下板橋宿の最北端にあった上宿など人が通るわけもなく…。




地図で見ても一目瞭然だが、未だに板橋駅は 「板橋区の地図に入ってないんじゃないか?」 と恐れを抱くほど南の外れにあり、ぶっちゃけ北区なのか豊島区なのかわからない有り様だ。

上宿はその板橋駅から2駅分くらい離れた場所にあり、岩の坂はその上宿の中でも最も北に位置している土地である。(現在の環七寄りの場所)

現在の話で考えても、同じ旧中山道沿いの仲宿は商店街として大賑わいだし、不動通りの商店街も仲宿ほどじゃないにしろ人通りがある。それにJR板橋駅周辺は商店街というより "お父さんのお財布に優しい飲み屋街" として夜中でも賑わっている。

板橋区というのは区役所、税務署、警察署、消防署、郵便局といった公の機関・施設が、何でもかんでも旧下板橋宿周辺に集中している土地なので、元中宿や元平尾宿といった地域は、行政の中心部として日中も夜間も出歩く人の多い地域なのだ。(同じように大山が栄えたのもこれが理由)

だがしかし、同じ旧下板橋宿でも上宿(現板橋区本町周辺)だけは、今でも人通りの少ない "寂れ尽くしたシャッター通り" になってしまっており、マンションばかりが目立つ住宅地という状況にある。なんたって本町商店街には、個人商店が少ないというのにスーパーもコンビニもないのだから、これはもう街としての機能を失っていると言っても言い過ぎにはならないのではなかろうか?

言ってみれば上宿(本町)は、板橋が "現代型都市" への移り変わりの時期に大失敗こいたしわ寄せを、今の時代になっても一身に浴び続けているも同然なのだ。


さて、先ほど 「板橋駅は板橋宿の外れの処刑場があったような場所に出来た」 と言ったが、それを少し補足する。

宿場町の外れに処刑場などの "ケガレ" と看做される場所があるというのは、半ばお約束のようなものである。具体例を出すと、千住宿の南にあった小塚原(今で言う山谷の辺り) や、品川宿の外れにあった鈴が森などがこれにあたる。(ちなみにこの両者には泪橋 という共通点がある)

過去にこうした場所があった土地というのは、普通はそこを避けるようにして宿場町の中心部から都市として栄えていくものだと思う。

しかし板橋では宿場町の人間が鉄道駅建設を嫌がった結果、仕方なく "そういった土地" に板橋駅を作ってしまったため、"宿場町の端から栄えていく" という妙な逆転現象が起き、下板橋宿の中で駅から最も遠かった上宿は、発展とは無縁の土地になってしまったのである。

こうしてあらゆる角度から不幸の連鎖を受けた事で、上宿の岩の坂は小板橋氏が書かれている "スラム" と化す土壌が整ってしまったのだ。


というわけで、書いてて疲れたので続く。



■参考リンク

小板橋二郎著 「ふるさとは貧民窟(スラム)なりき」
<以下amazonより>
板橋の貧民窟・岩の坂で育った社会派ルポライターが綴る、壮絶で切ない、怒涛のような少年時代の思い出。木賃宿・長屋の住人。梅毒で鼻が無い“フガフガのおばさん”、正体不明のインテリ「ゴライ博士」、ヒロポン中毒のマアちゃん、初恋のパンパンガール…。強靱で、悲惨で、温かで、そして何より自由だった戦中戦後の「東京スラム」を、深い郷愁を込めて描く。

小板橋二郎
1938年東京都板橋区・岩の坂生まれ。都立上野忍ヶ岡高校定時制卒。さまざまな職業を転々としたのち、編集者、週刊誌記者を経て、フリーランス・ジャーナリスト(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)



【日本の特別地域3 板橋区】
小板橋さんの著書と併せて読むと、現在の板橋区の成り立ちや歴史的な問題点がよ~くわかるんじゃないかと。